インテリアのクオリティと激烈な時代の「勝ち残り戦略」
2012年 10月 20日
船井総合研究所のホープがやってきた。
彼に初めて出会ったのは今年の7月に開かれた大阪の会議だ。
目の奥にきらりと光る何かを感じていたのだが、
「仕事の進め方についてインタビューしたい、
また、是非見学させて欲しい」というリクエストだった。
ヘビーウエットの中津川へようこそおいで頂いた。
喜んでお引き受けし、会社説明や仕事に対する考え方の一環として、
スバルの歴史に残る名車を堪能してもらった。
既に3代目レガシィの良さを熟知している彼に、
4代目の凄さも知らせようと、
中津シェライフェで助手席を満喫させた。
彼から早速丁寧な礼状が届いた。
息子と1歳しか違わないので、
ふと元気でやっているかと思い出した。
こんな礼状が書けるような、
素晴らしい仕事をして欲しいと願っている。
このB4を名車という理由はもう既にご存じの人も多いと思う。
もう何年も前にこのクルマと出会ったからだ。
特にこのクルマには思い入れがある。
お客様からG4の下取りで、
再び我々の元に帰った素性の良い個体だ。
8月と
9月の2度にわたってスバルのクルマ造りを異端から眺めた。予告したように今回のブログでは、
更に異端な部分をフォーカスする。
後半にドアトリムの変遷を取り上げてみたい。
桜もいよいよ紅葉し始めた。
肌寒い雨の中を走ってふと気がついた。
早朝に摂氏10度を割る日ももうすぐだ。
繰り返しお伝えするが
摂氏7度を境にして、ウインタータイヤを装着して欲しい。
お客様感謝ディで、
硬度チェックや特売を企画している。
遙か昔から秋には感謝ディを開催していた。
もちろん昭和の時代だ。
スタートは「冬に向けての優しいクルマ教室」だった。
今でこそ全国スバルディラーの恒例行事になったが、
毎年恒例の秋の感謝ディを開催する「草分け的存在」だと自負している。
まだ誰も居ない事務所で
今回の抽選くじがひっそりとお客様を待つ。
そういえば、この奇麗なケースを購入するまで、
様々な抽選箱を使ってきた。
今日はお客様をお迎えするために設営と清掃を進めたので、
備品も点検清掃した。
こうしてみると懐かしい。
会場設営は当たり前だ。
しかしもっと大切なことは清掃だと信じている。
月に二度ある掃除の日では、
いつもの掃除に加え普段出来ないことを朝七時半から進める。
オープンカーを英国風に農家の倉庫風の車庫に保管するために、
ちょこちょこ手を加えて楽しんでいる
この場所と
イベントカーの格納庫を
二手に分かれて清掃する。
秋の清掃の醍醐味は丸洗いだ。
乾燥してすぐに乾くので
作業が進めやすい。
内部もほらこの通り。
こういうすっきりした気持ちよさを味わいながら
感謝ディの準備をすることで、
お客様との楽しい語らいを予感できる。
上手く連携して
次は格納庫を丸洗いする。
こうすることで斑、無理、無駄も改善できるから一石4鳥ぐらいの価値があると思っている。
大切な仕事に環境改善も含まれる。
工房の入り口の草取りも全員で力を合わせて進める。
Befor
After
奇麗さっぱりに整えると
すがすがしさでいっぱいになる。
感謝ディと環境整備がどう繋がるのか疑問に思うかもしれないが、
これをやらないと
準備万端とは言えない。
望桜荘の周りも奇麗に整えた。
当然、庭の中も来年の春に備え土作りも含めた手入れが毎日続けられている。
望桜荘は、イベント期間中応援スタッフの皆さんの昼食会場になるので、
爽やかな環境になるよう徹底的に清掃される。
ベンチの周りも整える。
ここは中山道を歩いている人にとっても、
大切な憩いの場になった。
大事にしていきたい。
工房の中は、とっくに奇麗に整っている。
そこで宝物殿に目を移した。
将来、中津スバルでスポットライトを浴びるために、
様々なパワートレインが保存されている。
その中でも異彩を放つエンジンがある。
これは
「第一級の国際戦略車」を目指してレガシィがデビューした当時、
名脇役を努めたエンジンである。
良い物は高いのが当たり前だ。
それでも価格競争力は必要なので
レガシィにはTiというベーシックグレードが誕生した。
今にも脈々と続く美点だが、
スバルの商品に共通する事は、
ベースグレードでもきちんと性能を発揮すると言うことだ。
最初はぱっとしなかったTiだったが、
後にtype-Sという特装車が発表され一気に人気に火がついた。
国内におけるレガシィ神話の名脇役を努めた。
ほぼ新品とも言えるこのエンジンは、
この検印にあるように1992年の1月10日に、
富士重工の手によりリビルトされた。
その日以来、静かに眠り続けている。
懐かしさに浸っていたら、
悲しい知らせが耳に飛び込んできた。
初代のレガシィの開発担当部長(今で言うPGM)であった、
中村孝雄さんがご逝去された。
レガシィを世に産み出すために大変な力量を発揮され、
発表まで漕ぎ着けた偉大なるリーダーだった。
中村さんが総責任者を努める社運をかけた巨大プロジェクトでは、
そうそうたる人物が名を連ねた。頭にすぐ浮かぶだけでも
エンジン開発 工藤一郎
シャシー開発 桂田勝
シャシー評価 辰己英治
商品企画 伊藤健
必然なのか、ここに名を連ねる全ての人物が、
元気の良かった頃のSTIで活躍された。
皮肉な物で、レガシィのエンジン開発で辣腕を発揮した工藤さんが社長を退任されてから、
STIの深刻な迷走が始まった。
猛者の居ない企業から、サラリーマン化した商品が排出される。
残念がら今後も当分それは納まらないだろう。
STIが元の魅力を取り戻すためには、
4WDターボのMTに特化して商品開発をするしかない。
じゃあ、どうすれば、
そういう会社に戻れるのか。
簡単だ、
中途半端にグレード化され、
見せかけの限定車を装いメーカーのご都合主義で作られた商品を、
買わなければ良いだけの話だ。
NBRに武者修行で行く以上、
ひょっとしたら遺言になるかもしれない。
STIが好きで、今後もあの会社に魅力を感じたい。
4WDターボ以外に、
STIの名を付けることははふさわしくないと思う。
いたずらにBRZにSTIの名を付けたり、
中途半端な商品をリリースすることをやめさせたい。
そういう商品は買わないのが一番。
本物のSTIの信者ならもうとっくに解っているだろうけど。
新参者も多いから、
こういう時こそ、スバリストに真実を託したい。
メーカーであるスバルが使い分けを許されたからといって、
STIに道を極めさせることを放棄させてはいけない。
閑話休題、
レガシィの開発で印象的なのは、
総責任者に役員クラスの人物を投入し、
スバルにおけるフラッグシップらしく最高の布陣で開発を続けてきたことだ。
2代目レガシィでは、
後に富士重工の副社長となる土屋孝夫さんが総責任者を務めた。
このクルマでチーフデザイナーを務めたのが、
あの気むずかしいオリビエ・ブーレィである。
そして土屋さんの秘蔵っ子である増田さんは、
SI-DRIVEを搭載したビッグマイナーチェンジでPMを努め、
BRZの開発責任者として辣腕をふるった。
3代目レガシィの開発では、
当時のエース、桂田さんがいよいよ総開発責任者になった。
初代担当の中村さんから続く一本の糸が、
はっきりした形として姿を現したのはこの時だ。
このプロジェクトでは、
桂田勝 主管
に対して
清水良一 主査
日月丈志 主査
という二人の番頭が、
初代において「クルマを極める」と語られたコンセプトを、
「レガシィを極める」に昇華された開発の脇を固めた。
清水は4代目レガシィ、日月は5代目レガシィのPGMになった。
それが必然だった事はスバルの歴史を紐解くと証明される。
当時を振り返るともう一人忘れることの出来ないリーダーが居た。
左側に写っておられる故田島敏弘元社長だ。
投資額が大きすぎる、赤字を出したとさんざん叩かれ、
最後はまるで追い出されるように社長を退くと、あっという間に逝去された。
もし、あの方の資金調達や開発投資がなければ今の富士重工は存在しないと思う。
右側の佐々木定道会長は日産の出身で、
スバルの小型車開発にはそれほど熱心だとは言えなかった。
ジャスティやドミンゴなどに重点を置いたが、
それはやむを得ないことで
日産と業務提携して、契られたことは、
彼等の主力車種とダブらない一つ下の車両を主力とすることだった。
バトンタッチした田島さんは、
そのような控えめの経営戦略を一気に見直した。
スバルには中期経営計画という物が存在し、
重要な羅針盤となっている。
田島さんの後を河合、田中両社長のリリーフでつないだ後、
新中期経営計画FDR-1を下げて登場したのが竹中社長だった。
久しぶり、そして富士重工誕生以来2人目のプロパーとして、
4代目レガシィ、R2、R1と立て続けに、
プレミアムブランドに脱皮するにふさわしい新型車をデビューさせた。
この時、スバルは大きく変貌を遂げた。
最も大きな功績はスバルブランドを初めて全社統一のCI(コーポレートアイデンティティ)にしたことだ。
今でこそ富士重工の社員は「むつらぼし」を誇らしげに社章として纏っているが、
それ以前は「マルフ」と呼ばれる社章であった。
この混在するブランドを見事に統一したのは、
竹中さんの大きな功績だと思う。
そしてスバル誕生から50周年を迎え、
4代目レガシィが見事カーオブザイヤーを受賞した。
その時の限定車が、今まさに手元にある。
50thアニバーサリーのレガシィが垣間見せたスバルの真のパフォーマンス。
特に20Rは素晴らしかった。
オプションコード75H
カーナビを標準装備したオートマチックのTouringWagon。
車両本体価格は税別で2,835,000円だった。
このブリリアントシルバーとオブディシアンブラック、アトランティックブルーに加えアークティックホワイト
スパークイエローの2色が有料色。
ハイラスター処理されたアルミホイールが新鮮だった。
ちなみにGTの価格は3,208,000円だった。
シンプルにGTとした命名も良かった。
この限定車のセンスは素晴らしかった。
上質なアイボリーレザーに合わせ、
きっちり上下に色分けされたインテリア。
カーペットだけ黒いような
貧乏臭さは無い。
アルカンタラをしっかりコーディネートし、
今でもなかなこれを超えるクルマが出てこない。
このクルマを出す「明確な背景」があり、
しっかりしたストーリーがあった。
ここに注目して欲しい。
プレミアムブランドとしての最低条件。
それはインナーハンドルの形状にある。
感謝デイの合間に
ブログを更新している。
お客様が来店される状況によっては
滞るかもしれない。
月曜日の早朝にはNBRに向け旅立つ。
もし更新が止まった時はご容赦頂きたい。
続く・・・・
彼に初めて出会ったのは今年の7月に開かれた大阪の会議だ。
目の奥にきらりと光る何かを感じていたのだが、
「仕事の進め方についてインタビューしたい、
また、是非見学させて欲しい」というリクエストだった。
ヘビーウエットの中津川へようこそおいで頂いた。
喜んでお引き受けし、会社説明や仕事に対する考え方の一環として、
スバルの歴史に残る名車を堪能してもらった。
既に3代目レガシィの良さを熟知している彼に、
4代目の凄さも知らせようと、
中津シェライフェで助手席を満喫させた。
彼から早速丁寧な礼状が届いた。
息子と1歳しか違わないので、
ふと元気でやっているかと思い出した。
こんな礼状が書けるような、
素晴らしい仕事をして欲しいと願っている。
このB4を名車という理由はもう既にご存じの人も多いと思う。
もう何年も前にこのクルマと出会ったからだ。
特にこのクルマには思い入れがある。
お客様からG4の下取りで、
再び我々の元に帰った素性の良い個体だ。
8月と
9月の2度にわたってスバルのクルマ造りを異端から眺めた。予告したように今回のブログでは、
更に異端な部分をフォーカスする。
後半にドアトリムの変遷を取り上げてみたい。
桜もいよいよ紅葉し始めた。
肌寒い雨の中を走ってふと気がついた。
早朝に摂氏10度を割る日ももうすぐだ。
繰り返しお伝えするが
摂氏7度を境にして、ウインタータイヤを装着して欲しい。
お客様感謝ディで、
硬度チェックや特売を企画している。
遙か昔から秋には感謝ディを開催していた。
もちろん昭和の時代だ。
スタートは「冬に向けての優しいクルマ教室」だった。
今でこそ全国スバルディラーの恒例行事になったが、
毎年恒例の秋の感謝ディを開催する「草分け的存在」だと自負している。
まだ誰も居ない事務所で
今回の抽選くじがひっそりとお客様を待つ。
そういえば、この奇麗なケースを購入するまで、
様々な抽選箱を使ってきた。
今日はお客様をお迎えするために設営と清掃を進めたので、
備品も点検清掃した。
こうしてみると懐かしい。
会場設営は当たり前だ。
しかしもっと大切なことは清掃だと信じている。
月に二度ある掃除の日では、
いつもの掃除に加え普段出来ないことを朝七時半から進める。
オープンカーを英国風に農家の倉庫風の車庫に保管するために、
ちょこちょこ手を加えて楽しんでいる
この場所と
イベントカーの格納庫を
二手に分かれて清掃する。
秋の清掃の醍醐味は丸洗いだ。
乾燥してすぐに乾くので
作業が進めやすい。
内部もほらこの通り。
こういうすっきりした気持ちよさを味わいながら
感謝ディの準備をすることで、
お客様との楽しい語らいを予感できる。
上手く連携して
次は格納庫を丸洗いする。
こうすることで斑、無理、無駄も改善できるから一石4鳥ぐらいの価値があると思っている。
大切な仕事に環境改善も含まれる。
工房の入り口の草取りも全員で力を合わせて進める。
Befor
After
奇麗さっぱりに整えると
すがすがしさでいっぱいになる。
感謝ディと環境整備がどう繋がるのか疑問に思うかもしれないが、
これをやらないと
準備万端とは言えない。
望桜荘の周りも奇麗に整えた。
当然、庭の中も来年の春に備え土作りも含めた手入れが毎日続けられている。
望桜荘は、イベント期間中応援スタッフの皆さんの昼食会場になるので、
爽やかな環境になるよう徹底的に清掃される。
ベンチの周りも整える。
ここは中山道を歩いている人にとっても、
大切な憩いの場になった。
大事にしていきたい。
工房の中は、とっくに奇麗に整っている。
そこで宝物殿に目を移した。
将来、中津スバルでスポットライトを浴びるために、
様々なパワートレインが保存されている。
その中でも異彩を放つエンジンがある。
これは
「第一級の国際戦略車」を目指してレガシィがデビューした当時、
名脇役を努めたエンジンである。
良い物は高いのが当たり前だ。
それでも価格競争力は必要なので
レガシィにはTiというベーシックグレードが誕生した。
今にも脈々と続く美点だが、
スバルの商品に共通する事は、
ベースグレードでもきちんと性能を発揮すると言うことだ。
最初はぱっとしなかったTiだったが、
後にtype-Sという特装車が発表され一気に人気に火がついた。
国内におけるレガシィ神話の名脇役を努めた。
ほぼ新品とも言えるこのエンジンは、
この検印にあるように1992年の1月10日に、
富士重工の手によりリビルトされた。
その日以来、静かに眠り続けている。
懐かしさに浸っていたら、
悲しい知らせが耳に飛び込んできた。
初代のレガシィの開発担当部長(今で言うPGM)であった、
中村孝雄さんがご逝去された。
レガシィを世に産み出すために大変な力量を発揮され、
発表まで漕ぎ着けた偉大なるリーダーだった。
中村さんが総責任者を努める社運をかけた巨大プロジェクトでは、
そうそうたる人物が名を連ねた。頭にすぐ浮かぶだけでも
エンジン開発 工藤一郎
シャシー開発 桂田勝
シャシー評価 辰己英治
商品企画 伊藤健
必然なのか、ここに名を連ねる全ての人物が、
元気の良かった頃のSTIで活躍された。
皮肉な物で、レガシィのエンジン開発で辣腕を発揮した工藤さんが社長を退任されてから、
STIの深刻な迷走が始まった。
猛者の居ない企業から、サラリーマン化した商品が排出される。
残念がら今後も当分それは納まらないだろう。
STIが元の魅力を取り戻すためには、
4WDターボのMTに特化して商品開発をするしかない。
じゃあ、どうすれば、
そういう会社に戻れるのか。
簡単だ、
中途半端にグレード化され、
見せかけの限定車を装いメーカーのご都合主義で作られた商品を、
買わなければ良いだけの話だ。
NBRに武者修行で行く以上、
ひょっとしたら遺言になるかもしれない。
STIが好きで、今後もあの会社に魅力を感じたい。
4WDターボ以外に、
STIの名を付けることははふさわしくないと思う。
いたずらにBRZにSTIの名を付けたり、
中途半端な商品をリリースすることをやめさせたい。
そういう商品は買わないのが一番。
本物のSTIの信者ならもうとっくに解っているだろうけど。
新参者も多いから、
こういう時こそ、スバリストに真実を託したい。
メーカーであるスバルが使い分けを許されたからといって、
STIに道を極めさせることを放棄させてはいけない。
閑話休題、
レガシィの開発で印象的なのは、
総責任者に役員クラスの人物を投入し、
スバルにおけるフラッグシップらしく最高の布陣で開発を続けてきたことだ。
2代目レガシィでは、
後に富士重工の副社長となる土屋孝夫さんが総責任者を務めた。
このクルマでチーフデザイナーを務めたのが、
あの気むずかしいオリビエ・ブーレィである。
そして土屋さんの秘蔵っ子である増田さんは、
SI-DRIVEを搭載したビッグマイナーチェンジでPMを努め、
BRZの開発責任者として辣腕をふるった。
3代目レガシィの開発では、
当時のエース、桂田さんがいよいよ総開発責任者になった。
初代担当の中村さんから続く一本の糸が、
はっきりした形として姿を現したのはこの時だ。
このプロジェクトでは、
桂田勝 主管
に対して
清水良一 主査
日月丈志 主査
という二人の番頭が、
初代において「クルマを極める」と語られたコンセプトを、
「レガシィを極める」に昇華された開発の脇を固めた。
清水は4代目レガシィ、日月は5代目レガシィのPGMになった。
それが必然だった事はスバルの歴史を紐解くと証明される。
当時を振り返るともう一人忘れることの出来ないリーダーが居た。
左側に写っておられる故田島敏弘元社長だ。
投資額が大きすぎる、赤字を出したとさんざん叩かれ、
最後はまるで追い出されるように社長を退くと、あっという間に逝去された。
もし、あの方の資金調達や開発投資がなければ今の富士重工は存在しないと思う。
右側の佐々木定道会長は日産の出身で、
スバルの小型車開発にはそれほど熱心だとは言えなかった。
ジャスティやドミンゴなどに重点を置いたが、
それはやむを得ないことで
日産と業務提携して、契られたことは、
彼等の主力車種とダブらない一つ下の車両を主力とすることだった。
バトンタッチした田島さんは、
そのような控えめの経営戦略を一気に見直した。
スバルには中期経営計画という物が存在し、
重要な羅針盤となっている。
田島さんの後を河合、田中両社長のリリーフでつないだ後、
新中期経営計画FDR-1を下げて登場したのが竹中社長だった。
久しぶり、そして富士重工誕生以来2人目のプロパーとして、
4代目レガシィ、R2、R1と立て続けに、
プレミアムブランドに脱皮するにふさわしい新型車をデビューさせた。
この時、スバルは大きく変貌を遂げた。
最も大きな功績はスバルブランドを初めて全社統一のCI(コーポレートアイデンティティ)にしたことだ。
今でこそ富士重工の社員は「むつらぼし」を誇らしげに社章として纏っているが、
それ以前は「マルフ」と呼ばれる社章であった。
この混在するブランドを見事に統一したのは、
竹中さんの大きな功績だと思う。
そしてスバル誕生から50周年を迎え、
4代目レガシィが見事カーオブザイヤーを受賞した。
その時の限定車が、今まさに手元にある。
50thアニバーサリーのレガシィが垣間見せたスバルの真のパフォーマンス。
特に20Rは素晴らしかった。
オプションコード75H
カーナビを標準装備したオートマチックのTouringWagon。
車両本体価格は税別で2,835,000円だった。
このブリリアントシルバーとオブディシアンブラック、アトランティックブルーに加えアークティックホワイト
スパークイエローの2色が有料色。
ハイラスター処理されたアルミホイールが新鮮だった。
ちなみにGTの価格は3,208,000円だった。
シンプルにGTとした命名も良かった。
この限定車のセンスは素晴らしかった。
上質なアイボリーレザーに合わせ、
きっちり上下に色分けされたインテリア。
カーペットだけ黒いような
貧乏臭さは無い。
アルカンタラをしっかりコーディネートし、
今でもなかなこれを超えるクルマが出てこない。
このクルマを出す「明確な背景」があり、
しっかりしたストーリーがあった。
ここに注目して欲しい。
プレミアムブランドとしての最低条件。
それはインナーハンドルの形状にある。
感謝デイの合間に
ブログを更新している。
お客様が来店される状況によっては
滞るかもしれない。
月曜日の早朝にはNBRに向け旅立つ。
もし更新が止まった時はご容赦頂きたい。
続く・・・・
by b-faction
| 2012-10-20 22:33
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