リニアモーターカー「マグレブ」とインプレッサWRX
2013年 10月 25日
実際に営業路線になるのは更に先だが、
この辺りの風景は、
10年でガラリと変わる。
なぜならば車両基地は早い段階で完成させねばならない。
もしかすると、
組み立ても中津川で進められるかもしれない。
これは10年前に山梨で撮影した風景だ。

「10年一昔」という言葉があるけれど、
現在の社会変化の速さを鑑みると、
10年など極めて短い期間に過ぎない。
あまり知られていないが、
JR総研の開発した磁気推進式鉄道(リニアモーターカー)は、
現在の新幹線に対して、約三分の一の重量で仕上がる可能性を秘めている。
その軽量化に対する執念は凄まじかった。
後述するプロトタイプに試乗した翌年、

たった一台しか無かった実験車両は灰と化した。
この背景にはやれる限りの実験を、
執念で貫き通した涙と汗の滲む苦闘があった。
中津スバルには展示場に並べるより、

工房で静かに眠る方が遙かに多いコンプリートカーが棲息している。
なぜ眠らせるのか。
この2台には強烈な遺伝子が流れている。
目覚めさせると、
ギョロリと目を剥き、
「インプレッサとは何か」と、
たたみ掛けるように問いかけて来るからだ。
白い方をS202と言う。
二代目インプレッサ初の本格的なコンプリートカーだ。
青い方はシリーズを締めくくる最強のインプレッサ「RA-R」だ。
今ではSTIから軽量化に対する執念など消え失せ、
単なるパーツを満載したクルマでお茶を濁すようになったが、
その昔は、本家の上を行く開発集団だった。
飛行機造りの遺伝子を持ち続ける富士重工の、
お株を奪うような軽量化への取り組みがあった。
例えばこの2台のコンプリートカーは、
どちらも基本的にspecCがベースになっている。
そして、乗り手を選ぶサラブレッドだ。
この子達を売る気が無いわけではないが、
それ相応のオーナーしか手のひらに収めることは出来ないだろう。
だから、
無闇に売ることは危険な場合もある。
しかし、
そういうクルマを作るのがSTIの仕事である。
すると、売り手も極めて正確に顧客を選ぶ必要があった。
それが出来ない今の姿は悲劇に近い。
トヨタ並みの低いIQで、
ドリフトごっこを繰り広げる彼等の姿は、
見ていて哀れでもある。
さて、話題を変えよう。
遂に夢が叶うことになった。
中津川にリニアモーターカーがやってくる。
あと10年も経てば、

毎朝、会議室から眺めるこの風景も大きく変わることだろう。
駅は写真の左下に見える町並みの奥に造られる。
風景が変わる理由は、駅よりも巨大な施設が造られるためだ。
今のところ車両基地と呼ばれているが、
詳細はまだ完全に明らかにされていない。
中央に見える電柱の右側に広がる森林や田畑は、
全て関連施設に姿を変えるだろう。
少し郊外に出れば中津川には、まだ豊かな自然がある。
地方の中核都市として栄えてきた中津川は昔から交通の要だった。
その上、インターチェンジやJR中央線が交差する周辺には、
まだまだ転用出来る土地がふんだんに存在する。

当社の直ぐ近くの広大な雑木林やお茶畑などは、
大規模開発に適した土地だ。

特に「中山間地農業技術研究所」は、
国家プロジェクトのためなら他に移転が可能な施設だ。
この広い土地は、

リニアモーターカーの新たな開発拠点になるだろう。
冒頭に紹介したコンプリートカーと、
リニアモーターカーには、
ある共通点がある。
それは、
「執念で軽量化を極めた」と言うことだ。
リニアに興味を持ち、
JRの推進するリニアモーターカーに2度試乗した。
最初に宮崎県の日向市で試乗した時、
「中津川市民ではまだ2人目です」と言われた。

そのプロトタイプは、
もうこの世に存在しないMLU002型だ。
この勇姿を忘れることが出来ない。
JR総研が情熱を傾けた浮上式鉄道は、
マグレブと名付けられている。
リニアモーターカーという抽象的な名前が先行しているが、
いくつもの種類が存在する。
その中でもマグレブが圧倒的に優れる理由の一つは、
他よりも高く浮き上がることだ。
マグレブの技術的な要は、
液化ヘリウムの冷凍サイクルにある。
絶対零度まで、
ニオブチタンなどの金属を冷却すると、
突然電気抵抗がゼロになる。
その金属でコイルを作り、
液体ヘリウムで冷却して電流を通すと、
電源を遮断しても電気が流れ続ける。
そして強烈な磁界が生じる。
それが超電導磁石だ。
普通の磁石に比べて、
磁力の差が恐ろしく大きい。
だから反発する極を向かい合わせると、
100㎜も浮き上がるのだ。
試乗した頃は、
「クエンチ現象」と呼ばれる、
磁力が突然ダウンする症状に良く見舞われ、
走りはするが浮き上がらない時も多かった。
しかし10年程前に山梨県にある実験センターで最新のMLX001に試乗したら、

そんな気配は全く無く、
既に新幹線のような快適性を持っていた。

だから、「これは技術的に完成しているな」と感じた。

加速したら

凄い勢いで終点まで達した(笑)
少々大げさだが。

そして心の中で呟いた。
「もったいない」
世界に売るべき優れた技術を、
ずっと塩漬けにしてきた。
その気になれば直ぐに商業化できるはずだ。
研究レベルから、
営業レブルに急転直下で話が進んだ根底には、
東日本大震災があると思う。
その時から大きな潮目の変化が生まれた。
子供の頃から鉄道が大好きだった。
だから、リニアモーターカーにも興味があった。
より深く付き合うようになったきっかけがあった。
ある日、一人のお客様に呼び出され、
強要されるように「JC」と呼ばれる組織に入会した。
入ってはみたものの、
活動全般が心底好きにはなれなかった。
元々入りたくて入ったわけでも無いので、
だんだん嫌気がさしてきた。
特に当時は、「祭りの捏造」を進めていた(笑)。
今では中津川の夏を彩る風物詩に育った「おいでん祭」。
だが、
その発端はNHKの人気番組による企画だった。
対外的に通用する「ふるさとの祭り」を創るために、
中津川市とNHKの思惑が上手く重なり合った。
ストーリーは、
「ある古い武家から伝わる土蔵に一枚の絵図が眠っていた。」
「その絵図には祭りらしき様子が描かれていた」
「それを元に地域の若者が主体になり祭りを復活させる」
そんな感じだと記憶している。
でも、その絵図が本当に中津川の昔を描いた物なのか、証拠はほとんど無かった(笑)
だが、そんなことはどうでも良い。
船は動き出したのだった。
そもそも「お祭り」がそれほど好きでは無いこともあり、
下っ端と言うことでコキ使われるのが嫌でたまらなかった。
でも、入ったからには前向きで取り組むのがポリシーだ。
しかし、
「祭り」はどうしても肌に合わない。
顔や態度に出たので、
評判も良くなかったかもしれない。
まあ、
それを手伝うことはやむを得ないにしても、
嫌なことを言われて、
ただハイハイと従うだけではつまらない。
ある事を企てた。
同じ年に入会した仲間と旅行する幹事役を仰せつかった。
そこで行き先を宮崎県に定めた。
ゴルフ旅行が表向きだ。
しかし、元々ゴルフも嫌いなのだ。
仕方が無いから、
一日目だけ素知らぬ顔でゴルフして、
二日目にレンタカーを借りた。
そしてゴルフの嫌いな仲間だけを誘い、
日向にある実験センターをいきなり訪問した。

当時の所属が広報委員会だったので、
勝手に取材班を作って見学したのだ。
その時、一人の男性職員による極めて正確かつ、
丁寧な対応が嬉しかった。
その人は当時の広報課長、上野さんだった。

こちらも熱心に質問したので情熱が通じたのだろう。
驚いたことに、
「予約して来てくれれば試乗されても良いですよ」と、
次のステップを提示されたのだ。
凄いチャンスがやって来た。
その時に、
まだ中津川市からは県会議員以外、
誰一人試乗していないことも明らかになった。
準備万端に身支度し、
単独で宮崎を訪問した。
そして、試乗した上で、
感想をレポートにまとめた。

それを上野さんが高く評価してくれたのかもしれない。
JR総研から、
直々に「マグレブ」の標章使用を許諾されるまでに至った。

これがその登録商標が入っていた袋だ。
まだ国鉄の名残があるオフィシャルの素材だ。
マグレブのロゴマークを見ると、

当時はガイドウエイの床にまだコイルがあった事が解る。
結構なお宝かもしれない(笑)
技術革新が続き、今では側壁に取り付けたコイルだけで、
浮上と推進の両方が可能になった。
さて、せっかく使用を許されたのだから、
マークを使って何かやりたい。

そこで、ステッカー作成を提案したわけだ。
完成したので、
プレスリリースを出すと、大騒ぎになった。

近隣の市町村からクレームが付いた。
「これでは中津川に駅が出来ると決まったように見える」と、
強烈な苦情がいくつも寄せられたらしい。
青年会議所は行政と軋轢が生じることを基本的に嫌う。
だから「出る釘」は打たれた。
極めつけはこの取材だった。

母だけが「私の息子だ」と涙を流して喜んでくれたらしいが(笑)。
当時、市会議員でさえまだ試乗していなかったのに、
「偉そうなことを言ってる」と見えたのだろう。
新聞記者から取材を受けたので、
正直に思うことを話しただけだが、
褒めてもらえることは、一切無かった。
今だから言えるが、
心の底から痛快だった。
始めてその組織で、
やりたいことを自ら考え、
思うように成し遂げた。
自分の上に居た先輩が、
大きな包容力で理解してくれていたからこそ出来た。
決して一人でやれたわけでなかった。
その当時、
なぜそこまで執念を持ってリニアモーターカーに関わったのか。
また、
惹きつけた魅力とは、一体何だったののだろうか。
改めて振り返ってみたい。
3つの要素にまとめてみた。
まず第一番目に上げられることは、
マグレブは日本の技術の粋を集め、自主開発した革新的な乗り物だと言うことだ。
二番目は「超電導」というブレイクスルーした技術がコアになっていることだった。
三番目は「軽量化」だった。
実はこの軽量化に対して最も興味をそそられたのだと思う。
マグレブの開発をリードした、JR総研の京谷さんは、
「軽うせい」が口癖だったと聞く。
地震国日本で、安全に時速500kmの高速鉄道を成り立たせるためには、
100㎜の浮上式鉄道を実現させることが不可欠だった。
その執念に惚れていた。
それと同じように、
スバルのクルマに対して、
強烈な魅力を感じる。
特にSTIのリリースするコンプリートカーだ。
その魅力を要約すると、
第一に、
カタログモデルには無い味があり、より手足のように操れる。
第二に
カタログモデルとは違う強烈なパワーユニットを持っている。
第三に
「軽量化」をとことんまで極めている。
ということだろう。
残念だが、
徐々にそういう傾向がSTIから消えてしまった。
しかも、恣意的に、
そうでは無い方向にコンセプトを振ったと感じる時がある。
こうしたことは自社においても、
日常的に感じられる。
そんな風に誰もが感じていないか。
自分の近くを見て欲しい。
だんだんアグレッシブでは無くなったように思わないか。
こんな時に
どのように意識を変えるのか。
3ヶ月掛けて準備する大切なイベントが、
いよいよ目前に迫りつつある。
このお客様感謝ディの意味は何か。
それをもう一度考えた。

ダイレクトメールにマンネリ化は生じていないだろうか。

何かスパイスが欲しい。
そんな時、
レガシィの歴史をまとめた小冊子が出来上がることを知った。
これまで培ったシステムを活かし、

すぐさま贈ることも意識改革の一つだ。
全てのお客様に喜ばれるかどうかは別として、
今は来年に繋がる大切な節目でもある。
準備をどんどん前に倒して進めた。

JPからいつもの3倍の箱を借りて、
詰め込んだ。

そして勉強会を開く事にした。
講師として誰がふさわしいか考え、
FHIの地区担当を務める清田さんにも相談したが、
火中の栗に触るのはとても嫌なようで、
積極的な協力を得ることは出来なかった。
そこで、現在の状況下で最も講師にふさわしい、
「インプレッサの父」をお招きすることにした。

平成を迎え、スバルは激動の時代に突入した。
そこで更なるウルトラCを狙い、
初代インプレッサをデビューさせた。
ラリーで大成功し、
モデルイヤーも長きに渡った。
渾身のフルモデルチェンジを担ったのは、
伊藤健氏だ。
彼がわざわざ当社の社員のために、
レクチャーを引き受けて下さることになった。
テーマは、

「スバルの放つコンプリートカーとは」。
今までのコンプリートカーの中で、
特に優れた物を社内で再検証した。
開発者からの話を直接聞くことや、
質問を投げかけることで社内の意識を変えたい。
これは
長期的にスバリストやスバラーを増やす計画の一環でもある。
スバルが他と異なるのは、
「クルマの開発に対する執念」の強さだ。
歴史的なクルマの実物を並べ、
その雰囲気の中で社員にお話し戴くと、
改めてスバルの歴史の重さにも気がつく。
社運をかけたクルマを実際にまとめ上げた人の話を聞くことは、
今の我々にとってとても大切だ。

なぜならば、
近頃、苦労をすることを嫌い、
なるべく手際よく物事を進めようとする傾向があるからだ。
それに、改めて知らないことが山ほどあと気がつかされた。
目から鱗が何度も落ちた。
だから、
普段クルマにあまり深く関わってこなかったパートの女性社員からも、

このような感想を聞くことが出来た。
STIに対して苦言を述べることが多いが、
ところてんのように組織の人事が進められると、
どうしても道に迷ったり、
失ったりすることもある。
それを是正するのは「顧客」しか無いだろう。
ブランドは誰が育てるのか。
それはあくまでも顧客だ。
二代目インプレッサは、
壮大な野望を孕んで誕生した。
開発目標は先代モデルの3倍ほどの能力まで磨き上げることだった。

丸目で誕生したインプレッサは、
以前にも触れたように本来の能力を正当に評価されるより、
ネガティブな部分を徹底的にほじくり返された。
その結果、3度も顔を変えるという、
希有な結果ももたらした。
しかしその間に、
クルマそのものは、
当初の目的を実現するかのごとく、
次々とコンプリートカーという形で花を開かせた。
スバルの歴史上、
初の320馬力を実現した、

S202。
そして、STIがプレミアムブランドへの足がかりを築くことになった、

S203が生まれた。
そして更に発展させたS204が生まれると、

先代のインプレッサの、
3倍の能力を持たせるという野望はほぼ完遂した。
203と204は、まるで一流の料理人が持つ研ぎ澄まされた包丁だった。
だが、その後更に素晴らしい、
レガシィベースのS402が誕生した。

この時から、STIのイメージが大きく変わった。
プレミアムカーをリリースする、
メーカーとしての可能性が漂い始めたからだ。
その間隙を縫うように、
度肝を抜くクルマが誕生した。
この発想の転換が凄かった。
未だにこれを越えるクルマが出ないのも、
ある意味仕方の無いことだろう。
RA-Rは剃刀だ。
刃物がそれぞれ目的に合わせて使われるように、
クルマにも目的を考えた作り込みがある。
300人にしか「売らない」と決めたクルマの作り方は、
剃刀のような切れ味を持つ。
S202の持つ狂気を孕んだ燻し銀の輝きは、
RA-Rと言う形に磨き直し、
そして更に整えられた。
こだわりの320馬力エンジンは、
RA-R専用の排気系を用いてチューニングされた。
量産エンジンのキャリーオーバーでは無かった。
最も軽いスペックCのボディから、
不必要なルーフベーンを取り外し、
更にシェイプアップ。
とにかく徹底的に軽量化している。
乗るとSシリーズとは別物で、
誰にでも操れる代物では無い。
切れ味が鋭すぎるからだ。
この後、この味は途絶え、未だに蘇らない。
しかし、
日本でこう言う事が出来るのはSTIぐらいだろう。
いずれ、きっと元のアグレッシブな姿に蘇る。
それを祈念して、

乾杯!

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まだ完成版のブログではないかと思いますが、興味深い記事だったので、コメントさせて頂くこと、ご容赦ください。
私はコンプリートカーのオーナーになった経験がないので、STIの味が分からないのですが、スバルで作っている車で軽量化にこだわった車は、軽さを感じつつも、高速などではふわふわした感じがなく、むしろ安心させられます。一見すると、真逆のような軽量化と高速安定性を両立するのは、やはり大変な技術力あってのことなのですよね・・・