日本を3度も襲ったオイルショック。

それに関連し、
ハイブリッド車は急激に普及した。
エコカー減税ならぬ、
「補助金」まで給付された時期もあった。
駒ヶ根の山本さんに、
面白い喫茶店へ案内された。
まるですぐにでも整備が始まりそうなガレージだ。
素晴らしく手の込んだ趣味で埋め尽くされていた。

懐かしい乗用車やレプリカが、
素晴らしいジオラマになっている。
昨年インディアナポリスに行った時も、
同じようなジオラマを見た。

クルマの中から店先を見ただけで、
「オーナーはレースも好きなんだな」と感じた。

ジオラマは面白いけれど役に立たない。
このような趣味趣向の世界なら、
ワクワクするほどステキだが。
スバルに生まれた時から関わり続け、
「盲点」の存在を嫌と言うほど味わってきた。
盲点は失敗しないと姿を現さない。
ジオラマならば許される。
安全性や動線をまるで考えず、
ただの仮想空間として楽しめれば良い。
この逆もある。
だからかもしれない。
ディーラーは水商売に関わらない方が良い。
ジオラマなら許される。
本気で役には立たないが、
雰囲気を出すのは面白い。
その昔、
岐阜スバルの多治見営業所は、
半分が「むつらぼし」という喫茶店だった。
面白いことを考えたが、
程なく消えて無くなった。
ガチンコで両方とも上手くやろうとすると、
なかなか難しい。
尺度が違うからだ。
飲食店も常にリスクはつきものだ。
衛生管理が悪いと食中毒が起きる。
ここに相対しない尺度の差がある。
自動車会社でも飲食は提供する。
衛生管理に気を遣う。
だが、
基本的に無償供与だ。
その代わり整備は無償では無い。
そこに絶対的なプライドを持つ必要がある。
高い安いという比較では無く、
根底に絶対的な安全思想を持ち、
良い仕事をすることだ。
それを自覚できた。
この店はジオラマを維持できる、
絶対的なプライドを持って商売していた。
だから客足が途絶えないのだろう。
山本さんに感謝したい。
良い場所に案内してもらえた。
インディ500は1951年から始まった、
世界三大レースに数えられるイベントだ。
1960年代に加速したエネルギー革命は、
さほど遠い時代の出来事ではない。
間伐材から作った薪や炭の需要は激減し、
その影響で成り立たない集落が続出した。
いわゆる「廃村」という自治体の消滅だ。
保存活動の甲斐があり、
今でこそ価値を再認識されているが、
訪れる人ははまだまだ少ない。
この生活が主流になる時は2度と来ないだろう。
ただ薪や炭が恋しい時もある。
なぜ人は炎に惹かれるのか。
最近よくサルが出没し、
中には増長した群れも出始めた。
平気で人を威嚇する。
こういう下等動物は無視するに限るが、
絶対に甘やかしてはいけない。
ここの住人や働く人は心優しいようだ。
駒ヶ根市という場所は奥が深い。
美味しいお土産をありがとうございました。
赤飯饅頭の味は例えようが無い。
何とも言えない良い甘みと、
もっちりした食感が良い味を出す。
パンも戴いた。

これほど重量感のあるパンを見たことが無い。

懐かしい食パンの匂いだ。
うっとりしながら、
チーズトーストが頭に浮かんだ。

早速スライスチーズを買ってきた。
手でちぎりパンに載せオーブントースターに入れた。
絶対値の味だ。

昼飯代わりに食べたら、
夜まで全くお腹が空かなかった。
岡山工務店の木枝さんが年末の挨拶に来てくれた。
どこでも手に入る代物では無い。

中津川市福岡で技を競い合う二つの酒蔵が、
競作する梅酒だった。
妻の顔がほころんだ所に、
もう一人お客様が現れた。
サラダコスモの中田社長だった。

昨日まで南米に滞在されていたそうだ。
美しいバラのクリスマスプレゼントが、
妻のハートにぐさりと刺さったようだ。
夕方には神奈川から関口さんが来訪された。
愛機S203に冬支度をさせ、
正月の期間にウインタードライブを楽しまれるのだろう。

やはり一番のお勧めはバイキングコンタクト6だ。

腰の強さが安定した操縦性に繫がるはずだ。
沢山のお客様から、
様々なご厚意を戴いた。
お正月のイベントでタップリお返ししたい。
必死で作ったかわら版が、
遂に完成した。

裏面を大宮君が担当し、
最終チェックを終えた。

表も撮影段階から積極的に狙って、

カーオブザイヤー受賞にふさわしい内容に整えた。
来年もお正月の元旦から営業をスタートする。
ショールームは既に出来上がった。

このショールームを作った13年前、
「いずれ美しいスポーツカーで埋めたい」と願った。
人間は本能や直感も大事だが、
積み重ねた経験則を重視する。

オレンジ、
イエロー、
ブルー、
全て今のスバルを代表する色だ。
これと同じ空間を作り上げたスバルディーラーが、
日本にまだあるだろうか。
恐らく一つも無いだろう。
お客様に美しい空間で、
美味しいコーヒーを飲んでもらうのが、
日頃のご愛顧に対する恩返しだ。
それだけでは無い。
この下に更に素晴らしい空間を作りたかった。

ジオラマでは無くリアルな世界だ。
クルマを整備するためには高さが必要だ。
安全にクルマの下に入るためには、
リフトで持ち上げる必要がある。

そのためには高さが必要だ。
ジオラマとリアルワールドの差がここにある。
可燃物の管理も大変だ。

タイヤを保管し、
これを維持するためにはかなりの苦労が伴う。
こうした店作り、
環境作りも含め、
お客様に商品を提供している。

これがスバルの原点だろう。
スバルが次へ飛躍するために、
このクルマの役割は大きかった。
他社と比較して、
卓越した性能を持っていた。
しかも「燃える」という事実を強烈に売れるに意識させる。

リヤフェンダーの様子を見ただけで、
2ドアスポーツのオーナーがこのクルマに注いだ愛情が解る。

当時からダウンサスとフェンダーのワイド化は鉄則だった。
駒ヶ根の猿を見て思い出した。
サル社会は典型的なピラミッド社会だ。
野生のサルはともかく、
動物園のサルを観察すると惨めだ。
あの社会はいじめの上に成り立つような醜さを発散する。
未成熟な内はヒトもいじめ騒ぎを起こす。
だがサルとヒトは根本的に違う。
2つの分岐点に「炎」の存在があった。
縄文式土器を見ると、
古代からヒトが「火焔」に対して特別な思いを持つ事が良くわかる。
炎を支配できず手に負えなくなると大やけどを負う。
それを軽んじて自然の摂理に逆らい、
手に負えない炎を作り出す行為は愚かだ。
戦後の日本人は執念で復興を果たし、
数々の試練を乗り越えてきた。
エネルギー革命に続く高度成長時代の中で、
ドルショックで大きな痛手を被った。

その頃にスバル1300Gが活躍した。
そこから立ち直り、
日本列島改造論を標榜した政治家が一世を風靡したが、
所得倍増計画から狂乱物価へと続き、
最後は日本の屋台骨を揺るがす疑獄へ滑り落ちた。
レオーネの時代を目前に控えていた。
好調に見えた日本経済も、
第四次中東戦争をきっかけとした第一次オイルショックにより、
とてつもない不景気へとつながる。
これまでに聞いたことのない「需要抑制」ということばが駆け巡り、
深夜放送の自粛や、
各社が開発にしのぎを削るロータリーエンジンが、
マツダを除き全て開発を取りやめた。
ヨーロッパにおける動揺も深刻で、
アウトバーンをクルマが一台も走らない日があったり、
燃費の悪い超音速旅客機コンコルドは一気に魅力を失った。
その後イラン革命をきっかけにして1979年に第二次石油ショックが起きると、
再びガソリン価格は急騰し、
当時学生だった懐を強烈に打ちのめした。
1リットル160円を越え、
最終的に200円近くまで上昇する勢いを見せる。
その後次第に安定し、
次のピリオドを迎える。

スバルは車種構成を一気に拡充させようとした。
しかしプラザ合意など経済的な荒波が吹き荒れ、

直列4気筒エンジンを横置きしたインプレッサは、
開発の終盤で挫折した。
それがWRCでの成功に繫がった。
後からなら何とでも言えるが、
その当時は、
やりきれず壁にぶつかったヒトも多かっただろう。
お正月に向けて準備を整えながら、
過去を振り返り、
将来を予測した。

ズラリと並んだ意欲的な軽自動車。
どの時代も一つ頭抜けた自動車開発を進めている。
R1の開発当時は石油価格も落ち着いていた。
その安定していた価格を破壊し、
マネーゲームが三度目の石油高騰を引き起こした。
競技することも我慢し、
マルチシリンダーからも徐々に手を引いた。
今から8年ほど前に、
理由の解らない第三次オイルショックが起きた。
ガソリン代が200円を超えるような勢いを見せると、
発表されたばかりのWRX STIは出鼻をくじかれ、
他メーカーのハイパワー車も一気に消沈した。
しかし振り返ると、
エネルギー需要のピークは平成に年号が変わる前後のバブル期から始まり、
21世紀に足を踏み入れた2000年ごろまでだろう。
エネルギー消費は下降の一途をたどり、
現在ではピーク時の87%にまで落ちている。
エネルギーの使用先は、
運輸
家庭
業務
産業
の4つに分けて統計が取られ、
その変遷を見る事が出来る。
注目すべきは産業部門におけるエネルギー消費だ。
第一次オイルショックから第三次オイルショックと、
度重なる試練を乗り越えた結果、
第一次オイルショックの影響で消費が激減した1975年度の実績より、
2014年度の消費の方が98.75%とわずかに下回る。
これは凄い事だ。
当時に比べ他の部門は全て増えた。
業務は242.3%と倍以上。
家庭は178.5%と増えた。
運輸は162%と伸び率が最も低い。
こうしてみると一次エネルギーだけに絞った変化が気になる。
1975年から2014年までのエネルギー源泉を調べると、
石油
石炭
天然ガス
原子力
水力・地熱
新エネルギー
の分類で統計が出ている。
日本が外乱で大きく影響受ける石油資源から、
原子力開発に軸足を移したことは歴史を振り返れば明快だ。
1980年から1985年の5年間で、
脱石油のために原子力政策に大きく力を注いだ。
1975年に僅か1.5%だった原子力発電が、
2000年のピーク時に12.1%を記録した。
アメリカのスリーマイルアイランドで事故が起き、
チェルノブイリで人類史上最悪の事故を起こしても、
日本だけはイケイケだった。
それでは原子力発電所がすべて停止しても、
何故それほど困らないのか。
それはまず、
震災以前は電力が余っていたからだ。
原子力発電で大量の電気を作れるが、
一旦動き出すと簡単に停められない。
そういう電気を有効活用する目的で、
スバルのR1eも誕生した。
東京電力の「スイッチ」と言う政策と、
当時セットで開発されていた。
実は石油の需要は1975年以来ずっと下回り続けていた。
東日本震災以後上昇したがそれは統計上わずか1%だ。
それでは一次エネルギー供給を何で埋めたのか。
1975年当時と比べ構成比は、
石炭148%
天然ガス948%
原子力ゼロ
水力・地熱62%
新エネルギー440%
これらは依存率なので量的な姿が解りにくいかもしれない。
あくまでも勝手な解釈ので、
それを承知で読んでほしい。
エネルギー革命で石油に軸足が移り、
便利だと恩恵に頼っていた。
すると産油国が、
「先進国だけ良い思いをするんじゃない」と原油価格を値上げした。
物凄く便利な割に、
不安要素を数多くはらむ原油から、
日本は勝手に安全神話をでっちあげ、
凝りもせず原子力政策を突き進めた。
電気を何で作るのかと言う構成比をみると、
2005年から2014年で面白い傾向が解る。
震災後原発ゼロによって、
石油は横ばい
石炭は1.2倍
天然ガスは1.9倍
水力や新エネルギーは総量が少なく比較の対象にならない。
だから石炭や天然ガスは鳴かず飛ばずだった。
まだ記憶に新しい第三次石油ショックの後に、
石炭と天然ガスが目覚め、
東日本大震災で需要に火が付いたと言える。
パリ協定で何をしようとしているのか。
「本当に地球が温暖化している」と、
都合のよい証拠だけを集め、
地球由来のエネルギーを封じ込める。
人類が親しんだ「炎」ではなく、
もっと手強い相手を支配しようとしているのだろう。
2030年の見通しを見ると、
産油国の影響を封じ込めるために、
石油依存率を2014年度の11%から3%に抑える。
石炭を31%から26%に抑え込む。
調子づいてる天然ガスは46%から27%に抑え込む。
水力や地熱はもうあてにせず現状を維持。
それじゃあどうするのか。
大量の廃棄物を生むかもしれない太陽エネルギーや、
アメリカやドイツで動かない風車の方が負い風力発電など、
未知の領域の新エネルギーを4.9倍に、
現在ゼロの原子力を最大24%迄賄えるように稼働させることだ。
それは原発を2005年度比77%まで復活させ、
新エネルギーを1480%に高める事を意味する。
無理だろう。
なぜか。
人類は見える炎と共に進化したからだ。
特にスバルは原子力や新エネルギーとかみ合わない。
炎を極めてきた遺伝子を持つからだ。
特にスバルの危機を救ったアイサイトと、
原子力技術は全く整合しない。
スバルのアイサイト開発者が、
自動車テクノロジーのキーパーソンとして注目を集めている。
だが忘れてはいけない事がある。
この技術の源流には、
原子力発電に大きな危機意識を持った二人の姿がある。
彼らは東芝を退職した技術者だった。
スバルはなぜアイサイトのような奇抜なものを突然考え出せたのか。
それはスバルが無からモノを作り出すDNAを持つからだ。
もう一つは外の血を持つ優秀な技術者が現れたからだ。
アイサイトの中枢技術であるステレオカメラは、
「炎」と深いかかわりを持つ。
スバル研究所の存在が大きかった。
田島敏弘社長の時代、
スバルは今に繋がる様々な施設や機関を作った。
そのスバル研究所に、
原子力に関わってきた技術者が、
新しい活躍の場を求め着任した。
そこで彼らは炎の解析に取り組んだ。
燃焼状況を透明なシリンダーの中で再現し、
それを撮影する方法としてステレオカメラを考え出した。
研究開発を続けるうちに、
ヘリコプターを安全にホバリングさせるための技術開発にも応用しようとした。
それはうまくいかなかったが、
ところがある日これを予防安全技術に応用出来ることに気がついた。
ステレオカメラの画像に着目して、
ADAの開発が始まった。
スバル研究所を設立した意義はものすごく大きかった。
なぜならもしスバル研究所が開設されなければ、
東芝から彼らはスバルに移籍しなかった。
彼らがステレオカメラを作らなければ、
スバルの予防安全技術も他社と同じレーダーや赤外線に頼るシステムになっていた。
スバルは体質的に開発を群馬で進め、
本社機能を首都に置き販売戦略や財務を司る。
群馬の開発本部では既に予防安全の研究開発が進んでいた。
当時の予防安全を指揮する役員は、
とても先見の明があった。
群馬の開発本部が提案する技術では無く、
スバル研究所の提案するステレオカメラを選んだ。
そしてスバルの先進安全技術の開発を、
ADAで進めることに決めた。
原子力の将来に危機意識を持ち会社を去った者が、
次の活躍の場でアイサイトを熟成させ、
結果的にスバルを世界一級の安全技術を持つ会社へと躍進させた。
しかもADAはただ単に理想を追求した技術では無い。
普通の人々が常に車を安心して運転できるよう、
安く普及させることを目的にした。
これこそ愛のある技術だ。
二次エネルギーである電気を作るためには、
様々な方法がある。
だが暮しの中で
炎を燃やす技術を舐めてはいけない。
この安全で定着した技術を、
まだまだこれからも磨く余地がある。
2017年を迎えるにあたり、
今年一年を「内燃機再認識の年」として締めくくりたい。
スバル1000の復活作業も、
何とかガラスを付ける所まで漕ぎ着けた。
5年前の様子が分かるので、
興味があれば振り返って欲しい。
まだまだ走れるようになるまでには、
時間が掛かる。
順番待ちの整備を沢山抱えている。
継続は力と信じて走る日を目指す。