
涙目にも前期と後期の二つがある。
スバルブランドは完全にWRCとリンクして輝いた。
走り始めてすぐ、
ドライバーズコントロールセンターデフを、
オートモードからフリーに切り替えた。
三つ並んだメーターの一番左を見ると、
駆動トルクの前後配分が解る。

ダイヤルを回し前後のトルク配分を変える。
矢印を下げると、

一番下に下がると同時に、
矢印が緑色の表示に代わる。

ガラリと走りの雰囲気が変わり、
ターマックにおける運動性能が良くなる。
フロントタイヤの摩擦使用負担が減るので、
ステア特性に変化が出るのだ。
涙目後期ではセンターデフに改良が施され、
タイヤサイズもアップされた。
言うのは簡単だが、
ここまででも相当な改良だ。
タイヤサイズを大きくするのは簡単な事では無く、
ボディ側も強化しないと両立しない。
ホイールもPCDをアップする必要があった。
ニュルを攻めるには剛性不足だ。
この時久し振りにSVXの規格が蘇った。
GDBの完成を迎え、
性能確認を兼ね諏訪湖まで高速道路を駆け抜けた。

ブルーでコーディネートされたコクピットは、
ラリーで戦う事を考慮された造りになっている。

とは言え、
実用車として十分通用する。
後席も広くオトナが十分ゆとりを持って座る事が可能だ。
NBRの24時間レースでも活躍したし、
タイムアタックでも記録を残した。
とにかく世界ラリー選手権で勝つ必要があったので、
たゆまぬ改善が世界トップの競技通じて続けられた。

従って軽くて強烈なだけでなく、
凄く強靭で長持ちする。
後世に名を残すクルマに育った。
10万キロなんてお茶の子さいさい。

このクルマのタイミングベルトは9万キロ未満で交換された。
前のオーナーの気遣いが解る。

大事にされた証が、
インテークマニホールドに現れている。
手入れが悪いと剥げてくるが、
このクルマのチジミ塗装は綺麗なままだ。
大きなトランクを持つ事も、
このインプレッサの人気の秘密だ。

開口分も大きいし、
デカい羽根がある割には開閉も楽だ。

深いトランクにはかなりたくさんの物が入りそうだ。

シートバックの中央が前に倒れるので、
長尺物をトランクスルーで積載できる。

リヤストラットタワーバーも装着されている。
とても元気な走りが楽しめた。
まさか水源地から貯水池まで、
続けざまに走る事になろうとは思わなかった。
予期せぬ展開になった。
その翌日に丸目のGDBがラジエター破損でオーバーヒートを起こした。
涙目のテストの次は、
なんと丸目のお迎えになった。
満々と水を湛える諏訪湖から、
佐久間湖までの積算計を合算したら。
トータルで500kmを楽に超えた。
飯田市を経由せよとグーグルマップは指示したが、
お客様の言う経路は全く違う。
第二東名を走り、
静岡県側から三遠南信道路に乗れという。

親亀の上に子亀を載せて、
浜松に向かって走った。
ひたすら、
ただひたすら走り続けると、
目的地が近づいてきた。
川の中を走れと聞いてはいたが、
こいつにはたまげた。
どんな事が起きたのだろう。
水害の影響が色濃く残る川底を走り、

建設中のでかい橋脚を見ながら目的地に近づいた。
暫くすると、
対照的な建造物が現れた。
物凄く古い時代を連想させる隧道を抜けると、

ダムの堤体が姿を現した。

堤体のてっぺんを県道がそのまま走る。
この先は飯田市に繋がるので、
本来ならばこちらから来る方が近い。
ところがこのルートはとんでもない山道で、
しかも土砂崩れのまま復旧の見通しが立っていない。

だからか!
川から上ってから、
ここまで来る間に人っ子一人見る事は無かった。
シーンと静まりかえったダムの天端にクルマを停め、
どんなダムなのか眺めてみた。
下から登っていく間、
ダムのダの字も見えず、
いきなり取水塔と水門だけが現れる変わったスタイルのダムだ。
不気味な静けさの中、
堤体から放水門の下を覗き込むと、
思わず股間が縮みあがった。
メチャクチャ高い。
堤体の高さは150mを優に超える。
前方に強烈な放流エネルギーを吸収するための、
副ダムが設けられている。

大雨が降る前や、
降った後などに洪水を招かないよう、
豪快に放流するのだろう。
全体的に変わった風体を見せるダムだ。
堤体に取り付けられた銘板には、
建設当時の苦労を物語る文字の羅列がある。
昭和28年から始まった壮大な事業は、何と僅か3年後の昭和31年に竣工した。
そして35万キロワットという、当時ではかなり規模の大きな発電を実現した。
現在はもう一つの揚水ダムと組み合わされ、桁違いの電力を作ることが可能になっている。
ダムはいつ見ても良いよな。
そういえば、
ダムカードをもらいそこなった。
誰も居なかったが、
どこに行けば手に入るのだろうか。
これだけ豊かな水があれば、
安定した水力発電が可能だろう。
右端にある二つの取水塔から、
それぞれ一本ずつ水を下流に送り、
佐久間発電所の巨大なタービンを回す。

ダムの仕組みを知れば知るほど、
更に興味が深くなる。
だからあまり深追いをしない事にしている。
発電所はダムからかなり離れた街の中にある。
50人以上が従事されているようだ。
頭上で時折ジリジリと音が出る。
見上げると、
ジジジ、ビビと超高圧電線から音が聞こえた。
音だけでなく、
体全体に電磁波を感じて、
何となく勢いが出たような錯覚を得た。
このダムを作った時代が頭の中に浮かんだ。
第二次世界大戦が終わったのは、
開戦から4年後の昭和20年8月15日だ。
でも、
本当の意味で「終戦」を迎えたのはもっと後だ。
戦後処理と言えば聞こえが良いけれど、
敗戦処理はどん底からのスタートになる。
勝った連合国は当然敗戦国を支配する。
昭和20年にポツダム宣言を受け入れ全面降伏した日本は、
昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約を締結するまで、
アメリカの占領下に置かれていた事を忘れてはいけない。
その7年間に渡る、
独立国としての尊厳を削がれた状況の中で、
日本人は再び復活する日を夢見ながら爪を研いだ。
そしていよいよ日本は国としての主権を取り戻す。
その昭和27年に、
電源開発という国策企業が誕生した。
この佐久間発電所では35万キロワットの電力が産み出され、
東京電力と中部電力に販売している。
本格的に本体工事が始まったのは昭和29年なので、
終戦からそれまでに要した年月は9年ほどだ。
日本が焦土化して、
僅か9年でここまで立ち直った。
そして10年かかると言われた佐久間ダムの建設を、
僅か3年、
ダム本体に限れば実質的に2年で終えた。
凄いな。
二日で水源から貯水池まで来たのも何かの縁だ。
その節目に当たる9年という年月を、
そのまま現在にスライドさせた。
現代に重ね合わせると、
果たして何が見えるのか。
隣の国もアメリカともめて、
戦争に近い状態になりかけたが、
今一歩のところで踏みとどまった。
踏みとどまったが、
勝ちか負けかのカードが切れない。
だから「終戦処理」には、
恐らく相当な時間が必要だろう。
一筋縄でいくはずがない。
さて九年前に戻ろう。
2009年の1月8日の金曜日、
幕張メッセでオートサロンが開催された。

まだインプレッサWRXと呼ばれていた。
そのSTIバージョンに2ぺタルの「コンセプトA」が加わると、
初めて正式にアナウンスされた。

前年にモーターショーが無く、
オートサロンでSUBARUは意欲的な作品を見せた。
会場には森前社長に席を譲った竹中元社長も来場された。

スバル用品から意欲作が次々と発売された頃だ。
後ろに見える自転車は、
SUBARUの技術も注がれた意欲作で、
後の天体望遠鏡に続く流れができた。

SUBARUの巨匠たちが続々と幕張に集まった。
この時はまだWRCも念頭にあった。

STIの社長は工藤さんだった。
エンジニアが社長だったので、
STIそのものに勢いがあった。
NBR24での実績も重ねていた。

ゼッケンが凄い!
この10か月後にFT86が初めて姿を現した。
BRZの開発が順調に進み、
スバルがトヨタに底力を見せていた。
東京スバルの社長に転じた塚原さんや、
現役員の栗原さんも会場に駆け付けた。

皆SUBARUのモータースポーツを真剣に考え、
スポーツ精神とは何かをしっかり捉えていた。
それは今でも変わらない。
9年という年月は本当にあっという間だ。
今から9年前を振り返って、
改めて戦後9年で復興した、
日本の恐るべき底力を見直した。
ところでスポーツ精神とはそもそも何か。
ちょっと気になる事件が起きた。
モータースポーツも、
そもそもマシンを使った過激な格闘技だ。
ルールがとても大切だ。
もっとフィジカルな球技でも、
ほとんど格闘技に近いものがある。
2009年という節目で、
過去の記録を紐解き、
思いがけない事実に気付いた。
わき道にそれるが付き合ってほしい。
2009年のオートサロンから戻って、
ちょうど10日目に当たる1月19日の事だ。
とある会合に呼ばれた。
その9年前を境に日本大学の交流と縁を切った。
桜門会という組織がある。
毎月集まっては酒を飲んだ。
会員の年齢も様々だし、
職業の幅が大きく、
様々な話を聞けて楽しかった。
だが徐々に参加する魅力が薄れた。
理由は色々だが、
参加する人の変化についていけなくなった。
そんな時に会員の一人が副市長に就任する事が決り、
桜門会の名簿に沿って会員に大号令がかけられた。
お祝いの会は盛況だった。
流石に伝統ある大学だけあり、
中津川市周辺にもかなり多くの卒業生が住む。
副市長になった先輩は、
桜門会の会計幹事をずっと務められていた。
創設からその日迄、
ずっとその人が引き受けた。
当たり前の様でなかなかできることではない。
お金を扱う大変な仕事を、
何の文句も言わず続けた。
凄い人だと認めていたので、
久し振りに顔を出した。
やはり立場が変われば、
今まで同様に出来る事と、
もうそれ以上出来ない事が生じる。
そこで区切りがついた。
同じように、
「今日までにしよう」と決心した。
「こんなことをしている時代じゃない」
何となくそのように感じて、
静かにその場を去った。
そもそも大学の校友会とは何か。
未だに良く解らない。
日本大学は組織が大きいので、
校友会の組織もしっかりしている。
参加しなくなった後も、
校友会誌が毎年きちんと送られ、
素晴らしい管理だと思った。
だから校友会長の名を覚えていた。
今の理事長だ。
日大に入学出来て嬉しかったし、
今でも卒業できたことを誇りに思っている。
良い教育環境だったし、
とにかく先輩が多いのでお世話になる事も多々あった。
それがスポーツ精神を取り違えた事により、
そのブランドを大きく毀損させてしまった。
そもそも在学中から、
日本大学の経営などにはとんと興味が無かった。
でも経営の良さは、
学生に大きなメリットとして直接現れていた。
私立大学でありながら、
入学金は10万円で半期の授業料も10万円だった。
4年間で支払ったお金は入学金も含め、
90万円ととても負担が軽いのに、
東京のど真ん中の一等地で学ぶことが出来た。
その上、
軽井沢にピッカピカの保養所があり、
ゼミの合宿で何度か利用させてもらった。
当時の総長がどういう人かもう朧気だが、
理事長と総長が居るのも知らなければ、
どのように職務を分掌するのか興味も無かった。
今ならおおよそ見当がつくけれど、
まだ未熟でコドモに近い曖昧な学生のまま卒業した。
デカい企業で組織が出来上がって、
一旦経営がうまくいくと、
現場の細かい所が見えなくなる。
壺さえ押さえれば、
細かい事を知らなくても、
企業の組織が上手く機能しさえすれば、
勝手に回って大きくなる。
トップの知らない事があちこちで起きる。
最近散見される大企業における問題は、
同じような根で繋がっているような気がした。
最近のトップは組織の「要」に職務を分掌し、
グループで経営する事に徹する。
下手に力を発揮するとバランスも狂う。
だからトップダウンを好まない。
今度の日大騒動で矢面に立つ人と、
良く似た風貌の人がSUBARUにも居たよね。
とっくに逃げてしまって、
今は居ないけど。
日本大学が騒動で見せた振る舞いは、
誰が見ても「おかしい」と感じるはずだ。
でも良く見ると、
今の日本の大企業に共通する「生活習慣病」の様なもので、
特に珍しい事ではない。
学長の挨拶を読んだ。
「危機管理学部」と「スポーツ科学部」を開設した、
そう誇らしげに掲げている。
奇しくもその二つが全くダメだと、
学長そのものが思い知る事になった。
無理もない。
それは誰かの書いた文章で、
本人は大学の細部を恐らく全く知らないのだろう。
理事長も同じだろう。
動かないのではなく、
動くに動けなかったのだ。
その職務分掌の中で、
ゴミの様なマスコミの餌食になったのが、
広報部長だった。
彼は本来なら、
マスコミ対策を万全にするために乞われた、
いわゆるプロの「雇われ人」だ。
もし日本大学の生え抜きで、
母校に愛情を持つ者ならば、
会見時の「罠」にはまる事は無かっただろう。
トランプ大統領がマスコミを嫌うのは、
情報の加工が許される相手と、
まともに付き合っても無駄だと思ってるからだ。
冷静にビデオを見ると、
明らかに「言ってはいけない」事を言う方向に誘導された。
しかも映像の前後を切り貼りするので、
「役者」にとって不利な状況を自分で作っている。
司会した広報部長は日大の出身者では無いと仮定すると、
「ブランドに傷が付かない」と言い切る流れが見える。
「そんなもんどうでも良い」と思ってるからね。
もっと深読みすると、
「そんなもの始めからないわい」と思っているようにも見えた。
日大OB目線で見ると、
ありえない仕切り方だからね。
例えばSUBARUブランドも、
長年かけて磨かれて、
ようやくここまで辿り着いた。
だからあの会見を見て、
彼の眼にも「信じられない光景だ」と映ったに違いない。

SUBARUに当てはめてみよう。
資格の無い検査員による完成検査の問題で、
社長や担当部長が記者会見を開き、
必死で解る限り丁寧に説明した。
最後の燃費の問題など、
正直な所を言うと、
かなり重箱の隅をつつくように感じた。
多分、
記者会見では、
日本大学の会見の様な、
かなりイライラする事も聞かれただろう。
その時に、
もしSUBARUの広報部長が、
司会を務めたとしよう。
キレたりするだろうか?
そんな事があるはずない。
岡田部長は絶対にキレたりしないし、
そもそも品性が日大レベルでは無い。
出身校の「ブランド」にも高低差があるのは事実だ。
慶応大学のブランド力は物凄く高い。
現物を並べると、
それは一目瞭然だ。
慶応OBの岡田広報部長と、
毀損した日大OBの違いが上の写真に良く出ている。
そういえばTOYOTAの豊田章男社長も、
SUBARUの中村知美社長も共に慶応OBだ。

こうして横に並ぶだけで、
高級な慶応ブランドと、
毀損した日大ブランドの差が滲み出ちゃうぜ。
磨かれたブランドは、
外見からも容易に判別できる。
口の開き方に品位の差が見えるはずだ(笑)
客観的にはっきり言える。
共に同じ昭和57年の卒業だ。
奇しくもSUBARU社長交代の節目で、
日本大学の不始末が、
慶応大学とのブランド格差をさらに広げた。
ただでさえ差が開いているのに、
あの司会者は何を勘違いしたのだろうか。
他人ごとではない。
誰にでも同じことが当てはまる。
なので大切な事は、
常に研鑽を続けることだろう。
何事においても主観と客観には差がある。
別に慶応大学のブランドが羨ましいとも思わない。
日本大学が好きだから、
これまでと同じように大切にする。
早くマトモな対応が出来るよう立て直し、
理事長と学長がもっとスマートに説明しようじゃないか。
あんなドタバタ劇を見ると、
特に思うね。
自分の会社に愛情を持つ人間は、
責任の取り方が一味も二味も違うと言う事を。

逃げ出すのは簡単だが、
吉永さんは逃げなかった。
「自分の事だけ」を考えるような人では無いからだ。
会長職に留まらないと、
中村新社長がやりたい事をやれない。
流石だね。

柳澤純子も相変わらず美しかった。
毎年プロとしての道を守り極め続ける。
ここまで苦労して積み重ねたブランドを、
この先も光り輝くように磨いてほしい。
国内営業も刷新され、
トップとお目に掛かれた。

偶然写真の右端に登場されている、
前任者の細谷和男さんは東京スバルの社長になられた。
凄く気配りされる素晴らしい人柄なので、
今後も東京スバルは、
日本を代表するトップディーラーとして輝くだろう。
そして国内営業を知り尽くした、
佐藤洋一さんが執行役員として国内営業のトップに立つ。
物凄い気配りだと驚いた。
就任早々、
直々にご挨拶状を戴いたからだ。
国内営業本部の皆さんには、
今後も「愛の鞭」のつもりで言いたい事を言うので、
宜しくお願い申し上げたい。
とにかく目指すは、
夏に向かってフォレスターを華々しくデビューさせることだ。
吉永丸から中村丸に船の名は変る。
だが生え抜きで、
愛社精神の豊かな役員が沢山そろったSUBARUは、
我が母校日本大学とは全く違う。
肝に銘じて、
微力ながらSUBARUの発展に命懸けで臨む。
今後も期待して欲しい。