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無傷

おおよそ八年前、
東日本大震災は全ての日本人を覚醒させた。

その時、
子供たちに手紙を書き、


かなり思い切った決心の果て、
ドイツに旅立った。

そして初めてニュルブルクリンクで走り、
そこを終生の修行の場と決めた。

ドイツから帰って一か月後の事だった。

心に残る記事だったのだろう。

そのページだけ、
キチンと畳んでドキュメントボックスに入れたらしい。
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らしいと言うのは、
思いがけず見つけたからだ。

年末恒例の大掃除で、
デスクトップを徹底的に掃除して、
1年以上必要としなかった資料を破棄した。

その時、
この記事を見つけた。
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元社長の森さんが載っていた。

初めて森さんにお目に掛かり、
名刺交換した場所は東京オートサロンか、
或いは東京モーターショーだったのか定かではない。

もしかしたら式典だったのかもしれない。

その時の肩書は、
常務執行役員
スバル海外営業本部長だった。

森さんの活躍を見て「すごいなあ」と思った。
その理由は、
判断力とスピードだった。

秘書の力も凄かった。

「叱られる事ばかりしてるか・・・」

そう自嘲気味に言って微笑まれた。

それをよく覚えている。
「軽自動車からの撤退」
「WRCからの卒業」

軽自動車については、
叱られるどころか、
もともと大英断だと思っていたので文句はなかった。

「WRCからの卒業」も、
さほど異論はなかった。
当時はプロドライブの狡猾さに呆れ、
STI側の暴走に呆れ、
スバルの口出しも酷すぎたから、
もうどうしようもないカオスの中で、
そこから出られない状態だった。

MSiだったかなぁ。
いつの時代も膠着すると、
何でも複雑にしようとする。

だから残念だと思う気持ちと同じくらい、
「やめるのは今しかできないな」と感じた。

やろうとして出来ない事もあった。

工場立ち上げのエキスパートとして
残念だったに違いない。

一つはトヨタとの協業に付随した、
新工場の建設だった。

戦争前から使っている、
どうにも膠着した生産現場をリセットしようとしたが、
それもリーマンショックが吹き飛ばした。

今になって振り返ると、
もし作っていたなら、
この状況に陥っていなかったかもしれない。

でも震災の時、
全くクルマが作れなくて、
無傷で済んだのか。

そこは解らない。

あの頃大きな借金を抱えるのは、
かなりリスクが大きかった。

好調な中国に工場建設も考えていた。
こちらも中国政府が認めず頓挫したが、
もし作っていたらどうなっているのか。

それは博打みたいなものじゃないのかな。
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親しみを覚えたからとっておいたのだろう。
「あの苦労を経験されたのか」

レオーネの型式証明取り消しは、
まさに青天の霹靂だった。

当時の背景は複雑だ。

中島から富士に変わり、
二代目の吉田孝雄社長以外、
全てバンカーか役人上がりだった。

三代目の横田さんは逓信省のOBだし、
四代目の大原さんはバンカーだ。

そして日産との提携を経て、
佐々木社長が長期政権を握った。

元々これは当たり前で、
独り立ちできないから提携し、
助けてもらってるから社長が来る。

でも大変だった。

スバルは今後、
リッターカーと軽自動車に集中し、
後は日産車を生産して食って行けばよい。

そういう話になる。
日産を超えるクルマを創らせてはもらえない。

だからドミンゴやジャスティのように、
頓珍漢なクルマが生まれた。

軽自動車の外板を使って、
トレッドを伸ばしリッターカーにした。

ご存知のように、
日産自動車は国策企業だつたので、
企業としてのルーツがあいまいだ。

だから労働組合の方が社長より権力を握っていた。

そういう甘さがスバルにとってラッキーだったので、
そこそこ被るクルマの生産開発が続いていた。

当時の佐々木社長は、
群馬の工場を定期的に訪れていたのだろうか。

そんなはずはないな。

それは個人の問題ではなく、
当時の風潮だ。

何しろ地方の損保の支店長でさえ、
黒塗りハイヤーで挨拶回りをした時代だ。

確かにシャシーに鉛を詰め、
設計より軽く出来てしまった試験車の、
帳尻を合わせた事はよくない。

これは悪い事だ。

けれど、
それを明らかにすると、
「どうなるか」。
それは容易に想像がつくだろうに・・。

これは正義感で起きた事なのか?
違う。

よっぽど何かが溜まってたんだろうな。

「無傷」だった社長が、
一人として居なかったと、
歴史は如実に語っている。

鉛事件のさなかで、
開発が終わりかけていたクルマがある。

それが初代アルシオーネだ。

それが如何に面倒で難しい開発だったのか、
今になって良く分かった。

そのレオーネが、
アルシオーネ効果もあり、
高いGTからバンバン売れた。

SUBARU自身は、
過去を振り返り「あまり売れなかった」と、
結論付けている。

確かにそうとも言える。

日産支配下ではエンジン開発に手が回らず、
ターボしかなかった。

だがDOHCの代わりに、
エアサスや4WDのフルタイムATを持ったから、
レガシィ誕生を前にして、
地方ではかなり有効な起爆剤になった。

この事件後、
社長人事は日産から興銀へと流れを変えた。

そこで登場した田島社長が、
現在のSUBARUをほぼ構築した。

「聞く耳」と「度胸」を持った経営者だった。

就任後の4年で、
開発中だったEJ20を世に送り出し、
米国生産拠点も完成させた。

将来を睨み、
自前のテストコースも作り上げた。

中島知久平に次ぐ、
スバルの立役者なのに終わりは儚かった。
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スバルから嬉しい手紙が届いた。
中村社長は、
竹中社長から四代続く生え抜き社長だ。

そして彼も判断力が速く、
国際情勢にも明るい。

その上、
国内の販売環境も骨の髄からご存知だ。

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この手紙には重要なことが書かれていた。

端的に言うと、
これまでの悪循環を断ち切るため、
自分が先頭に立ち、
工場を愛情持って見回る覚悟がある。

そう受け取れる内容がしたためてあった。

意識や風土は悪戯に変えない方が良い。

土壌は作物を育てるのに重要な意味を持つ。

風土は正に土壌だ。

かと言って、
新宿と群馬の構図は、
エビスと群馬の関係に引き継がれていて、
いくら社長が太鼓を叩こうが、
そう簡単に動かないだろう。

「中村さん、大変だなぁ」
他人ごとにはとても思えなかった。
本当に心配していたんだ。

一つ心強く思う。

それは最初から順風満帆より、
船出は少し荒れたほうが良い。

それに「誰も悪い事をしたと思わない」

これは正直な気持ちだ。

前社長の吉永さんは清廉潔白な人で、
実にこの点がしっかりしていた。

どこかのように私腹を肥やし、
植民地から搾取の限りを尽くすような、
そういう風土はSUBARUには無いと信じている。

しかし、
営業経験しかない社長にとって、
群馬の開発や生産は、
まさに畑違いの場だろう。

しかも同じ系譜で二代続く。

今の状況は、
ある政治家の残した名言「伏魔殿」を思い出す。

そこに犯罪者が棲む訳では無いが、
自分にとってあまりにも非協力的で、
彼女は思わずそのように口走った。

そんな場所ではないにしても、
お互いに全てを知り尽くした人物の助けが居る。

人事を見て「なるほど!」と膝を打った。
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初めてお目に掛かったのは、
2年前の式典だった。

こちらが当時の国内営業本部長、
細谷和夫さんだ。
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ビックリした。

なぜならご本人も凄いが、
秘書も凄い人だった。
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本部長自らテーブルを回る影武者として、
秘書がピッタリ寄り添っていた。
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細谷さんの人間力を垣間見て、
中村さんが選ぶのも当然だと感じた。

細谷さんはこの後、
東京スバルの社長に就任された。

そこからSUBARUに返り咲き、
今年から製造部門のトップに座る事となった。

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この時、
秘書の方が細谷さんに添い遂げる姿が目に焼き付いたので、
写真を撮ったんだろうな。

何とも言えない安心感が漂っていた。

スバルはこうした人材に恵まれ、
素晴らしいクルマを創っている。
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まあ、
安心して見ていて欲しい。

今年新型車の登場が無いと思われる理由は、
「ゲン」が悪いからだろう。

こういう時は抑えたほうが良い。

なぜか消費税の増税と、
スバルの新型車は必ずバッティングする。

レガシィ然り、
フォレスター然りだった。

だから、
レヴォーグは無理せずその年を避けた。

理由が解れば安心だ。
今年は熟成したスバルをしっかり売ろう。

国内営業本部の皆さん、
今年もよろしくお願いします。
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栗原さん、
今年もよろしくお願いします。
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石川さん、
今年もよろしくお願いします。

整備の面で国内を支える、
サービス本部の皆さんも忘れてはいけない。
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緑川さん、
今年もよろしくお願いします。

フェロールームも忘れてはいけない。
スバルの宣伝課より、

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スバルを良く知り、
そしてこよなく愛する、
かけがえのないパートナーだ。

並木専務、
今年もよろしくお願いします。

直ぐ近くの統括本部も忘れてはいけない。
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名古屋スバルの社長として赴任された、
国内営業本部の元戦士だ。

小笠原さん、
今年もよろしくお願いします。

それに対して、
もうお目に掛かれないと思うと、
残念で仕方がない。
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日月さんは勇退されてしまった。

吉永前社長から、
当時の馬渕常務を紹介して戴いた。

挨拶すると、
馬渕さんが「存じあげてます」と仰った。

心当たりが無いので驚き、
「なぜご存知なのですか」と尋ねた。

以前、
商品の初期特性で気付いた事があり、
それを詳しく報告した。
すると群馬から調査チームがやって来た。
その解決にかかわった事をご存知だった。

馬渕さんのテーブルを離れると、
当時の森社長から日月さんを、
「我が社のホープです」と紹介された。

第一印象は「とてもダンディ」の一言に尽きた。

当時、
商品企画副本部長だった日月さんは、
五代目レガシィの開発を終えたばかりだった。

馬渕さんと日月さんのお二人が居なければ、
これほどスバルが輝くことは無かったかもしれない。

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そして吉永さんがSUBARUを更に大きく育てた。
今は株式会社SUBARUの会長として、
日夜ご活躍されている。

ぜひ五月の式典でお目に掛かりたいので、
参加される事を願っております。

Commented by 仙台市 斎藤 at 2019-01-08 20:22 x
代田社長、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
興味深く拝読させていただきました。富士重、SUBARUの変遷勉強になりました。メーカー本体の重鎮の方々これから反撃ですよ!打たれっぱなしではいられません。BRZのリコール作業中の代車にXV.1.6ℓお借りしておりますが、良いクルマです。これからも製販一体で頑張ってください。代田社長が目を光らせています!
Commented by b-faction at 2019-01-08 20:28
斎藤さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
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by b-faction | 2019-01-08 06:00 | Comments(2)

毎日の活動やスバルについてご紹介します


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