
SUBARUアルシオーネベース(SAB)の北側は、
ちょっとそっけない場所だ。
もともと大工小屋として建てられた。
だからそっけないのは仕方がない。
これが中山道に似合う景観とは思えない。
けれども特段目立つわけでもないし、
奇異な建物でもないので、
じっくり大切に維持すれば、
そのうち味の良さが増すだろう。
良い味を出すためには、
放置しないことが肝心だ。

よく見るとモルタルが不十分で、
草が生えている。
妻が気づき綺麗に取り除いた。

それにしても真黒だ。
前の駐車スペースを綺麗にしたので、
余計に汚れが目立つ。

戴いた看板を置いていた場所も、
苔が生えるほど天然だ(笑)
花壇で使っていた、
コンクリートのテストピースも真黒だ。
駐車場を透水舗装した時、
不要になったので保存した。
それ等を移動して、
この場所も綺麗に洗い流した。

ケルヒャーのエンジン洗浄機は、
構造の簡単な単気筒で、
リコイル式スターターを持つ。

かなりのパワーで汚れを吹き飛ばし、
堅牢制も充分だ。

テストピースも綺麗に洗った。
何かに使える日が来る。

立てかけてあった看板は、
昨年ブームを巻き起こした、
フクロウ商店街の外れにあった。

偶々見つけてご主人にお願いした。
もし壊す時が来たら、
この看板を捨てないで下さいと。
ところが壊す前にご主人が亡くなり、
奥様から「外してください」と連絡を戴いた。
もう7年も前になる。

建物は無くなったが看板は残した。
古き時代にも、
SUBARUの残した功績は深い。

修復して再び飾る。
方法を考えているが道程は長い。
これもまず洗わねば。

看板をエンジン洗浄機で丹念に洗った。
グンとひもを引っ張ると、
ポンポンポンポンと始動する様子が微笑ましい。
音を聞いて思い出した。
2010年に初めてドイツを訪問した時のことだ。

前半は娘と二人旅で、
メルセデスベンツとBMWを舐め回した。
その時に聞いた音に似ている。
この人類初の自動車エンジンの音だ。

大時計と呼ばれる単気筒エンジンだ。
会場でレシーバーを受け取ると、
日本語に通訳したガイダンスを聞ける。
ちょっと変な日本語だ。
・・・けど、
同盟国日本を尊重してくれているな。

ただし、
それを聞いたくらいでは、
当時の複雑な背景を理解できなかった。
だが、
こうしてベンツもダイムラーもマイバッハも、
同じフロアで祀られているところが、
やはりドイツのドイツたる所以だな。
カールベンツは馬小屋で秘かに3輪自動車を開発し、
一足先に特許を取得した。

その数か月後、
ゴットリープ・ダイムラーも世界初の自動車を発明している。
後に合併するのだが、
ダイムラーはどちらかというと起業家であり、
実際の開発者はマイバッハだった。
その頃の日本は明治19年、
富国強兵の真っただ中だ。
鎖国政策から尊王攘夷に移行して、
どんどん西洋文明から後れを取った。
その差は致命的で、
明治政府が尊王攘夷派で成立すると、
列強から不平等条約を押し付けられた。
まさに混乱の時代を乗り切り、
日本という国を維持するために、
富国強兵は避けられなかった。
落ちる所まで落ちないと目覚めないからね。
それから一気に日本は変り、
政権を担う尊皇派は文明開化へと道筋を付けた。
要するに先進国の良い所を徹底的に模倣した。
その文化の差がいまだに尾を引き、
日本人の自動車の使い方が幼稚なままなのだ。
日本人が自動車など想像もできない頃、
既にドイツ人はあらゆる移動機関に内蔵可能な、
パワーユニットの開発を終えたのだ。
ダイムラーが生涯を閉じたのは1900年だ。
その年のパリ万博で、
ユニークな動力装置が展示された。

ダイムラーの技術者の一人だったフェルディナント・ポルシェは、
人類初のハイブリットシステムを具現化したのだ。

内燃機の誕生から僅か14年のことである。
決してこのシステムが、
現在の日本に於いて革新的な訳ではない。

燃費は大切だが、
物事を余計なほど複雑にする。
シンプルな内燃機こそ、
本当に望まれる次世代ユニットかもしれない。
「おい!ジジイ!!」
背後に回った娘がいきなり髪の毛を掴んだ。
タロウの写真を直ぐに消せ!と怒る。
誰かがチクったな。
見てるところで消さないと、
大事な髪の毛をむしり取るぞ、と恫喝した。
それはえらいこっちゃ。
直ぐ消したと画面を見せたら怒りが収まったので、
ちょっと頭皮を観察してくれと頼んだ。
「えー、キモい!」
なに抜かす。
「えーんがちょ!!」
と訳の分からぬことを言う。
頼むから見てくれ、
表皮に異常はないか。
「汚い!何か手に着く」
お前が毟るからだろう。
そんなやり取りの後、
写真を撮ってもらった。
実はシャンプーに深い疑念を持ち、
二年前の海外研修以来使っていない。
その頃、
毎日のようにキーボードに抜け毛が落ちた。
記録を振り返ると、
2004年の11月23日に行き着いた。

異常な違和感を覚え妻に写真を撮ってもらった。
赤く斑点が見える。
それが時にはかさぶたのようになる。
毎日シャンプーして、
時には2度洗う事もあったが常に皮脂が浮くようで不快だった。
それ以降、
定期的に撮影したが常に頭皮に赤い斑点がある。
スキューバダイビングしてから、
シャンプーを使わず水洗いして乾かした。
その時はシャンプーが無いから仕方がなかった。
ところが、
南国の温い水で丁寧に洗うと、
そのまま乾かしただけで清々しかった。
このブログの読者からも、
洗髪は水だけで良いとアドバイスされた。
なので、
それ以降シャンプーを使わず毎日お湯だけで洗い続けた。

すると効果が出始めた。
人間の皮脂には様々な有効成分があり、
取り過ぎてはいけないと解って来た。
とにかく毛のコシがしっかりした。
もう勿論赤い斑点など皆無だ。
文明の利器が全て良いとは言えないと、
身を持って体験した。
シャンプー使うと頭皮は疲れるのかな。
考え方を変えお湯で丁寧に洗う。
以前はブラッシングなどほとんどしなかった。
毛質が柔らかく、
直ぐぺったんこになる。
後になって分かったのだが、
頻繁に界面活性剤で皮脂を取るので、
恐らく頭皮が過剰に皮脂を分泌していたのだ。
ブラッシングも重要だ。
リンスしなくてもサラサラなのは、
本来の自主回復力が働くからだろう。
・・・等と考えていたら、
娘がヒトの顔をまじまじと見て、
「じっとしていて」と言った。
いきなり眉毛を掴み、
ブチッと引き抜かれた。

「ヤダ、ナニコレ、異常に長い」
髪の毛なら激怒するが、
眉毛を抜かれてビックリした。
そして自覚した。
いよいよジジイと言われても仕方ないなぁ。
創業者の祖父にも、
長い眉毛が所々に生えていた。
朧気にしか知らなかった誕生日を、
ある事がきっかけで知った。
古物営業法が改正され、
古物許可証の更新手続きが必要になった。
大切な手帳を取り出して見せると、
警察官も「歴史を感じる」と驚いた。
そう言えば祖父も同じ猪歳生まれだった。

明治32年11月1日だ。
還暦で内孫が出来たと言う事か。

祖父の生まれた年は、
19世紀も終わりに近い1899年だ。
日本に於けるトピックは、
東京大阪間に電話が開通したことだろう。
それに比べドイツでは、
既にその頃からクルマを女性が運転していた。
祖父が生まれた翌年に、
ダイムラーがこの世を去る。
そしてもっと興味深いのは、

祖父の生まれた年に、
カールベンツが発明したエンジンだ。
それこそが、

世界初の自動車用水平対向エンジンだ。
裏側にはパテントが刻印されている。
流石だね。
SUBARUも内燃機の本質を極め、
もっと凄いものを出して欲しい。
ハイブリッドって、
SUBARUが言うほど凄いのかな。

STIがこれをやりたいらしい。
そうしないと売れるクルマは作れず、
燃費規制も克服できない。
と思ってるだけで、
スカルプシャンプー使えば、
禿の予防が出来ると妄信してるのと、
実はよく似てたりしないかな。
実のところ、
SUBARUの開発本部はどうなんだろう。
内燃機関にまだまだ期待してるかもしれない。
でもトレンドがこっちだからね。

正直に言うと、
こんなクルマを作ってくれても、
全然ドキドキしないんだ。
最近のSUBARUには需要を創造する気配が見えない。
だから、
STIも度肝を抜くクルマを作れない。
この悪循環から早く脱して欲しい。
ところがマーケティングや営業だと、
その立場の社員と意見を交わす機会は多い。
良く感じる事は「やれない理由を探す」ことだ。
環境規制
燃費規制
人が足りない
どうも違うんじゃないかな。
久し振りに開発の大御所と出会った。
壇上から「スバルは世界一ぶつからないクルマを作ります」
そう言い放つと、
こぶしを握り締めた。
いや~~、本当にあの時は感動したね。
馬渕さんからは責任感がオーラのように立ち上る。
今のSUBARUは、
13年前迄に道筋を付けた事の上に成り立つと思われる。
当時のSUBARU技術本部の要職を、
長年務められたのが馬渕さんだった。
SUBARUはプレミアムカー路線を突き進み、
「スバルらしさ」を卓越した性能で追い求めていた時代だ。
FRD-1と呼ばれる中期計画に沿って、
プロジェクトがどんどん進められた。
アイサイト然り、
リニアトロニック然りだ。
第三世代エンジン開発も、
その当時に確立した内容だ。
企業の存在は、
技術力によって成り立つ。
継続は力だ。
彼等はその当時、
SUBARUの「独創」と「先進性」を徹底的に追求していた。
その上で、
馬渕さんの持論には「モノづくりの原点」が明確に表れていた。
口ではなくカラダで作る。
モノを良く見て実践を繰り返す。
デジタル開発に傾注する事に警鐘を鳴らし、
頭でっかちになるなと部下を引っ張った。
ここには開発の魂が蠢いていた。
ところが一気に情勢が変わった。
リーマンショックになり、
その当時の社長は「今は走りに拘るな!」と厳命した。
そして技術本部のトップが交代した。
するとカラダで進めるモノ作りから、
口先で進めるモノづくりに変貌していった。
馬渕さんとトップが入れ替わった途端、
次の責任者は森社長の封印を都合よく使い続けた。
スバルらしさの追及は絵に描いた餅のような、
実体を伴わないプレゼンテーションに変わった。
例を上げると、
低価格化の実現という、
最も手っ取り早い方向に舵を切った。
プレミアムからバリューへと路線変更し、
一旦は時流に乗った。
ところが技術開発に金をかけるより、
「気持ち良い走り」だの、
「安心だと考える信頼」だの、
耳障りの良い事を言うだけになった。
「お客様のため」ときれいごとを言う割に、
強烈な個性や卓越した走行性能を全て封印し、
利益を出せる企業へ傾注した。
その結果、
原価低減を優先し、
技術開発の抑制も進め、
結果的に「穀潰し」に繋がった。
原価ばかりに気を取られ、
「単純化」や「絞り込み」など、
机上の空論に時間を割いた。
2009年当時はリーマンショックの直前で、
誰もが危機意識を持ったのは当然だが、
その部分しか見ようとしなかった。
それ以降SUBARUの独創性は、
現在に至るまで、
FDR-1の産物をキャリーオーバーした。
もっと踏み込めば、
今の繁栄の種は馬渕さんの時代に仕込まれたものだ。
その後の無策が如何に罪なのか、
現状を見れば容易に分かる。
そのツケが回って来た。
これで分かったはずだ。
「笑顔を作る会社」と嘯いたのが、
どれだけ「負の延長線」上にあったのか。
だが安心した。
今年のオートサロンで、
SUBARUの復活が見えた。
吉永さんは勿論、
馬渕さんとも御目に掛かれた。
彼等が健在なら、
全く心配はない。
ビジネスはビジネスで大事だ。
ここにセンスが無いと会社が傾く。
だが、
SUBARUの独創性はTOYOTAをも撃破し、
世界に燦然と輝くはずだ。
その種は「技術本部のある群馬」で燻蒸される。
嬉しくなった。
この後が楽しみだ。
また技術力オリエンティッドに戻るだろう。
製造現場も改善されるはずだ。
吉永会長と中村社長のコンビは強烈だ。
何しろラインを停めたからね。
意地悪な意見も新聞で見受けられたが、
実際には全く違う。
これは躓きではなく大胆な一歩だ。
「ラインを止めることは恥じ」とも言える文化を、
年頭から見直した。
エールを送りたい。
ややもすれば、
「市場対応」で乗り切れたかもしれない。
そんな手法は、
これから一切認めないと言う、
確固たる意志の表れだ。
ほとんどのスバリストは、
それを理解し共感するだろう。
何が出てくるのか。
期待している。
特に技術本部の底力に期待している。
熱い血潮を活かし、
更に頑張って欲しい。
これで1月を締めくくる。