SUBARUは本気で正直な会社になる気があるのか?
2021年 10月 19日
中島知久平がたった一人で飛行機研究所を起こした時、
きっかけはリンサーの導入だった。
元々綺麗に使われたクルマだったが、 室内の分解が終わり、
やはり長い距離を乗れば、 素晴しい内装に蘇った。
この初代XVを開発したのは、
彼はまだ33歳の海軍大尉だった。
彼は欧米列強の考える制空力を直視し、
当時の国防に対する不満を鬱積していた。
ところが、
彼のような優秀な男を、
当時の海軍が手放すはずが無い。
そこで彼は仮病を装い休職し、
農家の養蚕小屋を借りて、
密かに飛行機研究所を立ち上げた。
肝の座った男だった。
その年の暮れ、
彼は予備役に編入され念願の海軍退職がかなった。
そして彼はすぐさま研究所を本格的な場所に移設し、
総勢僅か9人で飛行機研究所を稼働させた。
その時の生産設備は、
10馬力モーター:一基
鉋機:一基
帯鋸:一基
丸鋸:一基
旋盤:一基
ボール盤:一基
これが今のスバルを作り上げた基礎だ。
数年前、
全国スバルオールスター表彰のオープニングで、
スバルはとんでもない大ウソをついた。
それは自分たちのマーケティングの都合に合わせ、
自社の歴史的事実を歪曲し、
しかも公然と使ったのだ。
エクシーガクロスオーバー7の誕生に合わせ、
そのキーワード「7人乗り」を、
「中島飛行機を7人で創業した」とこじつけた。
自らの社史に記された事実を、
平気で捻じ曲げる姿勢には恐れ入った。
中島知久平は、
もっと評価されるべき人物だが、
軍需産業に貼られたレッテルは、
去勢された現代人にとって臭いのだろう。
なので蓋をしたがるのだ。
その時、
明確な差を即座に「おかしい」と感じたが、
苦虫を噛み締めながら堪えた。
少しづつではあるが、
戦前に触れることを厭わなくなった。
「100周年」が近づいていたからだろう。
そのように悟った。
その年は不毛の時期だった。
それも嘘をついた理由の一つだろう。
フルモデルチェンジの狭間で、
新型車が枯渇していた。
前年に六代目レガシィをリリースし、
団子状態でひっ迫していた時期を抜け出たが、
今度は次のクルマが出せない。
その年は「まっさらな新型車」の予定が無かった。
そこで大幅に焼き直したエクシーガを、
事更に盛り上げようとして足を踏み外したのだった。
よく「ユトリの仕事だ」と彼らを揶揄するのは、
そうしたご都合主義、
或いは執念の欠如、
目先しか考えない処世術が垣間見えるからに他ならない。
さてインプレッサに話を移したい。
これは平成4年に誕生し、
レガシィ上級移行の隙間を埋めたが、
今ではレガシィを上回る基幹車種になった。
インプレッサベースのスバル車は、
今では計り知れぬほど多く、
フォレスターに始まり、
XVが加わりレヴォーグの誕生にもつながっている。
あえて言えばBRZもインプレッサが母体だ。
ここで強調すべき事がある。
インプレッサは誕生当時から、
常にWRXをラインナップに持つ。
三代目GRB型以降のWRXと、
初代レヴォーグは、
とてつもなく大きな開発費を投じ、
限りなく別のクルマに仕立てたが、
根本的にはインプレッサだ。
こうして見ると、
XVは更にインプレッサだ。
WRXとは大きく成長過程が異なり、
最初から現在まで、
インプレッサベースのSUVに他ならない。
現在のXVは三代目だ。
いつの間にかインプレッサの冠を外したのは、
アメリカにおけるアウトバックに真似たのだろう。
このブログの読者に対して、
ハッキリと釘を刺しておきたい。
初代XVの誕生は、
今から11年前に遡る2010年だった。
今年も10か月以上が経過し、
間もなく誕生から干支が一巡することになる。
昨年の初夏の事だ。
春から深刻になったウイルス禍の最中、
いつか復活させようと温存したXVを、
誕生10周年の意味も込めて復活させた。
それから約一年半の間、
初代XVは再び眠りについた。
その効果を試すために、
19万キロ走行したXVに白羽の矢を立てた。
第二駐車場で長く保管された事を振り返り、
リンサー効果を試す好材料だと思われた。
ミセス大鶴が慎重に取り掛かった。
効果はてきめんだった。
真っ黒い水が出るわ出るわ。
空気中の汚れをいやおうなしに吸い込む。
スバルインプレッサ開発プロジェクトチームで、
そのリーダーは臺卓治だ。
臺を「だい」と読める人は少ないだろう。
彼はこのクルマのコンセプトを、
「アクティブスポーツギヤ」と定めた。
その意味するところは、
スバルが提案する新たなクロスオーバーだ。
当時はダウンサイジング化が顕著になり、
顧客の要求も多様化した上、
インプレッサの属するセグメントには、
ライバルがどんどん生まれていた。
もう一つ忘れてはならないのは、
グローバルにおいてSUVのセグメントが、
他に比べ急速に伸びていた。
そこにSUVではなく、
あくまでもクロスオーバーとして投入されたのが、
この初代XVなのだ。
それでは具体的に何がSUVと違っていたのか。
サイズが小さい。
車体が軽い。
従って運動性能が非常に優れている。
乗用車に対して何を意識したのか。
タフでラギットな外観。
ルーフレールの存在感。
大幅に高めた車高(海外仕様)による悪路走破性。
国内と欧州は標準車高のまま、
全く新しいセッティングを施した。
リヤスタビライザーを新設計し、
ダンパーの減衰力を大幅に高めた。
その結果、
高いロール剛性による限界Gの向上を実現し、
スポーティな走りに生まれ変わった。
操縦安定性が一新し、
舵の応答性がとても良く、
ライントレース性能が大幅に向上した。
とは言え、
日本に出せなかった嵩上輸出仕様は、
こんなもんではない。
比べようもなく凄かった。
タイヤ径をアップし、
サスの取り付け位置変更も含め、
全体で50mmの車高上げを実現。
それに合わせ国内仕様には無い、
前後スタビ、
前後スプリング、
リヤサブフレーム、
パワーステアリングシステム、
以上を専用部品に置き換えた。
ダンパーには新たなバルブ構造を与え、
スポーティカー並みの操縦性を誇った。
この最初のコンセプトが、
非常にわかりやすく優秀だったので、
その後の竹内PGM、
阿部PGM、
井上PGMの優秀な仕事に繋がった。
さあ、
今日の動画をご覧いただきたい。
Commented
at 2021-10-20 20:52
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
b-faction at 2021-10-20 22:20
江部さん、こんばんは。マツダはもっと極端です。一度褒賞の場面にでくわしたのですが、何か勘違いしてらように思いました。時流を読むのは難しいですね。
2
Commented
at 2021-10-20 22:26
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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by
b-faction at 2021-10-21 07:22
太田さん、ありがとうございます。
ずっとブログを拝見し続けています。
建築業界の特殊な職人、作業車が壊れ待ったない時「デザートカーキ」の車を発見しました。
戦争が始まった頃の「零戦」の色。
それをスバルが...考え過ぎなのでしょうか。開発の三菱より遥か多く生産しエンジンは中島「栄14気筒」
現金で即買いし今の相棒です。
デザートカーキのXV「GPE」
楽しい人生をすごさせていただいています。下呂が好きでよく行きます。今度立ち寄らせてください。
建築業界の特殊な職人、作業車が壊れ待ったない時「デザートカーキ」の車を発見しました。
戦争が始まった頃の「零戦」の色。
それをスバルが...考え過ぎなのでしょうか。開発の三菱より遥か多く生産しエンジンは中島「栄14気筒」
現金で即買いし今の相棒です。
デザートカーキのXV「GPE」
楽しい人生をすごさせていただいています。下呂が好きでよく行きます。今度立ち寄らせてください。
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by
b-faction at 2021-11-14 07:19
金子さん、良い色ですよね。僕も大好きです。ぜひお立ち寄りください。心よりお待ちしております。
by b-faction
| 2021-10-19 22:00
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Comments(6)