目次
・最近のEV開発
・派生事業
・昭和の時代
・平成の開発
「最近のEV開発」
古びた車庫には隠れた野望がある。
この中に似合いそうなクルマはが収まっている。
そのクルマも勿論素敵だが、
この場所をリメイクした当時、
とてつもない野望を持っていた。
SUBARUはホンキで電気自動車をモノにしたと信じていた。
その登場が具現化していたので、
いつでも対応できるように200V化を進めたのだ。
当時の急速充電は400V基本としていた。
茶でも飲みながら語ろうと、
「チャデモ」を日本オリジナルの充電基準として完成させ、
家庭に於いてはオール電化の基準である、
200Vで十分対応できることを可能にした。
東京電力の進めていた電化戦略「スイッチ」に、
Reー1がぴったりと組み込まれ、
非接触充電も含めたインフラの構築が検討されていた。
街中に電力スポットを埋め込み、
包括契約で自動的に充電するアイディアも練られていた。
将来の動力源を開発する部署も作られ、
積極的に開発が進む一方で、
素晴らしい電池が出来たのに、
全く実用化に向かわないジレンマも生じた。

これは都会にフィットするアイディアで、
スバルはEVに関して頭二つぐらい抜き出ていた。
洞爺湖サミットに向けキャラバンした時の記録だ。
並走した三菱のアイミーブと比較しても、
抜群の高性能を誇ったが、
後に事業化を諦め、
共同事業の相手であるNECに売却した。
それを日産がぱくりと救い上げ、
最初は落胆したが、
SUBARUの体力で事業化など危険だと納得した。

量産する直前だと思える、
完成度の高さだった。
その後、
震災が起きてスイッチは吹っ飛んだ。
埒が明かなかったクルマとは別に、
その電池を使って実現した製品が一つだけある。

それがこの車庫の中に存在する。
「派生事業」
白羽の矢は産業機械に立てられた。
その結果、
ロビンブランドを生かして、
ラミリオンバッテリーの商品化が実現した。
それが、
SUBARU eーカッターPROだ。
当時は産業機械事業部に自動車開発のプロが在籍し、
それまでの軽自動車EV開発の知見も活かしながら、
様々な可能性が模索されていた。
その実用化にあたり、
スバルは専用のモジュールを完成させ、
電池パックとして発売した。
草刈り機としての能力は、
重量が重いことを除けば実に素晴らしかった。
当社のような軽微な使用環境なら、
プロ用として開発されただけあり、
10年以上たった現在でも当時と変わらぬパフォーマンスを発揮する。
このバッテリーはラミリオンと呼ばれ、
スバルとNECの共同で開発がすすめられた。
この分野もごっそりガソリンエンジンごと売却した。
それも後日になり、
大きな実を結んだ。

マキタは電動工具の老舗だ。
この電池を草刈り機だけにとどめず、
スピーカーや冷蔵庫まで拡充し、
有名なアウトドアブランドを超える勢いで一般市場に浸透した。
マルチバッテリー化が成功の秘訣だろう。
出遅れたライバルが、
無料でバッテリーをばらまいて、
シェアを得ようとする姿は、
昨近の軽自動車ビジネスの様でうすら寒い。

息子もマキタの製品に惚れ抜き、
ボーナスでこの電動工具を買った。

SUBARUの血が流れるから、
彼も誇らしげに使っている。
これから徐々にコレクションを増やすつもりだ。
さて、
目次に戻ろう。
「昭和の時代」
電気自動車だけでなく、
ハイブリッドもそのルーツは深い。
世界初のハイブリッドが、
若きポルシェによって陽の目を見たのは、
1900年に開催されたパリ万博に出展だった。
まだダイムラーの一技術者に過ぎなかったが、
天才的な感性はその頃すでに花開いたのだろう。
ポルシェはヒトラーの寵愛を受け、
様々な発明を繰り返していった。
そして戦争が始まり戦争が終わった。
日独伊三国は、
敗戦国として苦渋の道を歩き始めた。
日本に目を移すと、
戦争が終わり軍需生産は一切停止した。
そのため水力発電による電力が余った。
それを有効的に活かそうと、
電気自動車の開発が盛んにおこなわれた。
富士重工もその一社で、
鉛電池を使う電気自動車を開発したが、
その後朝鮮動乱が勃発すると、
鉛相場が急騰し事業が成り立たなくなった。
そこから平成の開発に繋がるまでは、
またの機会に。
今日は陸斗が少しだけ入院していて、
ココロが痛むので早めに休む。

けがや病気じゃないので安心して欲しい。
信頼できる医師に将来を託した。
それでは、
また明日。