
加藤さんに戴いた、
山田餅本店の鬼まんじゅうは、

単純なようで深い味わいを持つ銘菓だ。
噛み締めるたびに湧き出す濃くて強い自然な甘さが、
食べる者を夢中にさせる魔力を持つ。
とても美味しくいただきました。
すると、
チコリ村の中田村長さんから、
思いがけない贈り物が届いた。
見たこともない体裁の菓子箱に、

鋭いキーワードに飾られた最新作の商品が閉じ込められていた。

早速今朝の食卓に載せた。
お品書きには、
まず生で食べてみて次にトーストを楽しめとある。

鬼まんじゅうとは対極の世界にある、
とてもリッチな商品だ。
とはいっても、
栗きんとん7個分のきんとん餡を練り込み、
8等分のスライスが最適の厚さなので、
決して割高ではなさそうだ。

早速今朝の食卓に載った。
パン生地からはみ出ない様に整えるのに、
かなりの苦労を感じる事が出来た。
中田さん、
とても美味しくいただきました。
この味を定着させるためには、
限り無い努力が必要だが、
「食偏」で繋がる仕事だから希望がある。
パワーブレックファストになった。
今朝は七時から会議を始めたので、
全て1時間前倒して行動した。
従って陸斗をドッグランに出した時は、
未だ辺りは真っ暗だった。
順調に運動を終え、
綺麗に拭いてシャワーを浴び、
食事を済ませて玄関を出たら、

取っ手の隣でアマガエルが見送ってくれた。
今朝は犬酒場のテーブルにも、
鮮やかな緑色の姿をしたアマガエルが居た。
モノを誤って置いたら潰してしまう。
そっと指で撫でたら柱にぴょんと乗り移った。
なぜか知らないが、
この家の周りにはたくさんのアマガエルがいるけれど、
人間を少しも恐れず共生する。
ドッグランのトノサマガエルは、
ぴょんぴょん逃げるのに。
嫌いな生き物じゃないので、
玄関で見送られると「今日も一日良い日になるな」と、
嬉しい気持ちで出勤できる。
命運を分けると言う言葉があるけれど、
三代目のWRXはその分かれ道に坐した。

スタートは「こんなはずじゃなかった」だったけど、
終わりはとても良かった。
結果的に2ペタルも大成功して、
次の世代にきちんとバトンを渡した。
このクルマのデビューは、
当社にとっても様々な分岐点となった。
この日から、
あの集まりが始まった。

8台のSTIバージョン22Bが中津スバルに集結し、
そのチャンスに当社初のテレビコマーシャルを制作した。
岐阜広告の棚橋社長とも、
それ以来のお付き合いになる。

全く今と変わらぬ姿だ。
彼のモチベーションの凄さを物語る。

振り返ると面白い。
普通ならば消えてしまうであろう、
この時代の中古車が、
今でもその時と変わらぬ価値を持ち続ける。
さすがに22Bの高騰には、
目を見張る要素があるけれど、
作られた相場だと言うことも忘れてはならない。
当時のパートナーだったプロドライブも、
最近は仕事が薄くなっているようで、
このロードゴーイングバージョンを搔き集め、
とうとうキメラを作り始めた。
触らぬ神に祟りなしだ。
思わぬ結果に頬が緩んだ人も多いだろう。
既存の22Bオーナーにとっては、
思いがけない急な価格上昇で、
何十倍にも膨れ上がった価値を、
教育や生活環境の改善に当てたはずだ。
手放した人も少なからずいるはずだが、
こうした歴史的遺物は、
持てる力のある人の手を、
順番にめぐる運命を持つ。
運気のために役立てるならば、
正しく稼いだ己の金を、
存分に注ぎ込むが良い。
きっと、
「運」を呼び込むだろう。

始まりがしっかりした集いは、
やはり年を追うごとに強靭な絆を生む。
やっぱり大切なことは、

総裁と幹事長が強烈な魂を持つことだ。
この二人が要となり、
多少の出入りはあるものの、
コアメンバーは微塵も動かない。
その強い運気を納める器として、
当社の敷地を開放している。

ずっと持ち続ける人もいれば、
22Bのご縁で繋がる同志もいる。
来る人拒まず去る人は追わないが、
キメラだけは勘弁してほしい(笑)
なぜかと言うと、
「運気」を吸い取り「破戒」に導く可能性を帯びているからだ。

恐らく今年も始めた頃と変わらぬ数の名機が、

この土地に結集するはずだ。
スバルは過去の遺産のおかげで、
今の素晴らしいステージを作り上げる事ができた。
やはり航空機技術を極めた事が、
スバルのクルマ創りに繋がっている。
「社運を賭ける」と、
言うことは簡単だが、
一言ではとても言い表せない深い意味を持つ。
だからコドモが軽々しく口にしてはいけない。
過去にスバルは社運をかけて航空機開発に身を投じた。
富士重工業の初代社長を務めた北謙治は、
初等練習機T-1の開発企業に選定された時、
その不可能ともいえる開発工程を前に、
「社運を賭ける」と明言した。
それが我が国初のジェット機「T-1中間練習機」なのだ。
それに先立つ「橘花」を忘れてはいけない。
第二次世界大戦中に開発に取り組み、
終戦間際の昭和20年8月7日に、
木更津にあった飛行場で初飛行に成功した。
橘花の他にも、
キ201「火竜」が、
ジェット戦闘攻撃機として設計されたが、
陽の目を見ることなく終戦となった。
こうした既存技術の上に立つ、
果敢な先行開発姿勢が、
今もスバルの中に引き継がれている。
社運を賭けた国産初のジェット機開発は、
業界の垣根を超えた賛同を得て、
ほぼ計画通りに進んだ。
そして遂に誕生したT1F2は、
世界の水準を凌ぐ操縦安定性を誇る、
優秀な航空機となった。
昭和38年まで生産が続いたT-1は、
総納入実績が66機に達し、
日本の航空史上に残る金字塔を打ち立てた。
最大速度時速968kmを誇り、
その後着実に日本の戦闘パイロット養成の役割を果たした。
地味ではあるがその信頼性も高い評価を受け、
昭和58年には、
連続無事故10万時間記録を達成し、
訓練機としての優秀性を実証した。
これこそ歴史が物語る真実なのだ。
「社運を賭ける」の持つ意味とは、
これほど迄に「肝の座った」開発なのだと、
スバルのコドモタチは、
今一度振り返るべきだろう。