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アルシオーネSVXとは何だったのか

スバル研究実験センター(通称SKC)のペースカーは、
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滅茶苦茶カッコいいアルシオーネSVXだ。

仕様はノーマルだが、
元の性能が凄いのでテストコースを気持ちよさそうに泳ぐ。
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この時の雛壇に錚錚たるメンバーが並んだ。

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左から元STI社長の平川さん、
スバルの衝突安全を今のレベルまで引っ張り上げた偉人だ。

中央は現在CTOを担われる藤貫さん、
そして右がSVXの走りを決める役割を担った渋谷さんだ。

現在に至るスバル車開発の上で、
忘れてはならないキーパーソンである。

2010年の7月に初めてお目に掛かった。

この仕掛人は、
後の「学修灌頂 傳燈大阿闍梨 寛祥」こと落合玄光さんだ。
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彼は初代アルシオーネに惚れ込み、
何度もスバルと交渉して、
遂に開発部長を務めた高橋三雄さんとの面会を許された。
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その落合さんのご縁から、
素晴らしいミーティングが実現した。

落合さんに出席を促され、
参加して驚いた。

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夜の宴会には高橋さんも参加され、
翌日にはSKCのパレードランまで予定されていた。

只者では無い胆力を持つ人物にしかわからない、
惹き合う力が働いたのだろう。

後にダライ・ラマ14世が来日された際に、
同行されたことからも彼のオーラが窺える。
SKCに到着すると二代目レガシィのPGMを担当された、
当時の土屋副社長もいらっしゃった。
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如何に高橋さんがスバル車の開発を進める中で、
後に続く者たちに薫陶を与えたのか、
この時の経験で良く解った。

スバルはこうした人たちが、
脈々とものづくりを進める、
世界に誇れる自動車メーカーなのだと。

アルシオーネに関わるキーマンたちに、
このように「自然なもてなし」を戴くと、
「土壇場のクルマ」の価値が痛いほどわかる。

何をもって土壇場かというのか。

それを指し示すために、
この施設を作った。
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スバル・アルシオーネ・ベースだ。

落合さんから、
この場所で次のオフ会を開催したいと頼まれた時、
サプライズを企画した。
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それがホワイトボディを吊る事だった。

なぜか。

こんな奇跡に近い事をやる会社は、
スバルしかないと思っていたからだ。

高橋さんは、
その直前に三代目(通称AA型)レオーネの開発を終えた。

そこにプラザ合意の嵐が吹き荒れ、
スバルは付加価値の高いクルマの開発が必須となる。

そこで急遽レオーネをベースに、
全く違うスタイルのクルマを創造する必要に迫られた。

今のSGPへの進化には、
様々な偶然も重なる。
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レオーネベースとは思えない上物の創造には、
通常の能力しかない開発者では、
おぼつかない事も多かったに違いない。

それを奇跡の力でやってのけた。
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この部分が、
後にボディコンストラクションの要となった。

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この接合方法ではこの時代を生き抜けても、
次世代で様々な苦労が生まれる。

かと言って重くしては意味が無い。

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この細い芸術的ともいえるピラーが、
国際車としての剛性を確保し、
アルシオーネ独特の美しいスタイルを産み出した。

そして、
これらの経験から、
既存シャシーでの限界も学ぶことになる。

同時に最高の空力特性を実現したことで、
次世代の高速車両の開発を容易にした。

アルシオーネの開発が、
まずレガシィに搭載するパワーユニットの誕生に効果を発揮した。

そしてレガシィが生まれ、
レガシィ速度記録の挑戦から、
社内に数多くの高速テストドライバーを擁する様になった。

スバルの中には多くの走り屋がいた。
辰己さんはその中で良く知られた人物だ。

彼は初代レガシィの走りを決めるキーパーソンだったが、
実はそれ以上に重要な役割を担ったのが、
冒頭に紹介した渋谷真さんだ。

スバルはアルシオーネの限界を自覚した上で、
急遽スペシャリティーカーの世界へと足を踏み入れた。

そして同時に次の開発も視野に、
スバルはヨーロッパを舞台に開発を強化した。

それがヨーロッパの開発拠点を、
ドイツに開設した端緒だろう。

現在のSTCE(スバル・テクニカルセンター・ヨーロッパ)に繋がっている。
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そこのスタッフとなった渋谷さんは、
同僚の星野さん、
そして今でもドイツで重要な役割を担うシュミットさんと共に、
ゲオルグ・ウェーバーさんが開設したドライビングスクールに入った。

まだニュルブルクリンクの存在は、
日本において一般的では無かった。

しかし国際級の高性能乗用車を開発するスバルにとって、
そこは欠かす事の出来ない場所となった、。

恐らく日本人で初めての、
本格的にニュルブルクリンクを走れる人材の育成を終え、
国際級のスペシャルティクーペ「アルシオーネSVX」の開発に邁進した。
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この写真はSTCE創立メンバーの一人、
鈴木隆史さんから戴いた記録だ。

彼はおそらくスバルのスタッフの中で、
最も長い距離をヨーロッパで走った男だろう。

走って走って走り抜いて、
ホンモノのクルマを練り上げたのだ。

これがSUBARUの神髄なのだ。

1991年2月11日
彼は発表間近のSVXでスイスのアンデルマットを訪問し、
そこにあるスイスの特約店を訪れた。

そこの幹部に「SVX」の存在を知らしめるためだ。

その会社こそ、
あのエミュール・フライ社だ。

当時彼等は三井物産と合弁し、
スバルドイツも設立した。

今やスバルとグローバルでタッグを組む、
とても重要なパートナー企業なのだ。

ハッキリ言おう。
SVXは凄いぞ。
ホンモノだ。

歴史の陰に埋もれたままだったSVXを、
絶対に埋もれさせたくなかった。

その執念でSABを作った。

SVXはスバルのその後に大きな役割を果たしている。

最新のシャシー開発にも、
その時の知見が生かされてるはずだ。

このように、
スバルは一旦作ると決めたら、
とんでもない執念を注いで作る。

eーBOXERも同じなんだ。

もう一度、
良く聞いて覚えて欲しい。

スバルの開発力は何が源なのか。

今日の動画を楽しんで欲しい。

その中でキーポイントを語っている。



それでは、
また明日。

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by b-faction | 2024-11-10 22:00 | Comments(0)

毎日の活動やスバルについてご紹介します


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