
父は二十歳から仕事を始めたと家族には話していた。
まだモータリゼーションが未熟な時代に、
祖父と一緒に仕事を始めた。
祖父は中仙道妻籠宿の出身だ。
その生家は築三百年以上経つ江戸時代の建築物で、
今でも宿場の桝形に昔のままの姿で建っている。
祖父は明治維新の後の大きな環境変化により、
宿場が機能を果たさなくなり、
そこでの商いが成り立たないと見切りをつけたのだろう。
尋常小学校を卒業して、
読み書きそろばんがシッカリできたので、
運送会社に丁稚奉公することとなった。
当時は大井ダムの建設などもあり、
木曽川水系は結構潤っていて、
祖父と父はターミナル駅である中津川に創業の地を求めたようだ。
冒頭の画像は1954年(昭和29年)と推測できる。
まだスバルは誕生していないが、
中島飛行機から分社化した会社で、
百瀬晋六が手腕を発揮し始めた時に当たる。
当時は有限会社中津川モータースを立ち上げて、
オートバイ中心の商いをしていた。
百瀬晋六が「すばる1500(通称型式P-1)を完成させた年と、
当社の創業の年はキレイに重なる。
中津川市の駅前通りに構えた店は、
記憶の中でも順調だった。
大きな商いは無いが、
当時は父が走り回ってオートバイを売っていて、
昭和の高度成長期を絵に描いたような仕事ぶりだった。
この写真の日付を見ると、スバル360の発売になった年だと解る。
祖母は学校で読み書きを習わず、独学で字を学んだ努力家だ。
尚で祖母の書く時には曖昧なものが多い。
「○○の店」が何を意味するか分からないけど、

この時の母のお腹の中に、
もう居たことは間違いない。
黎明期のサブロクやサンバーを、
どれくらい売ったかは明確ではないけれど、
スバルとの商売は当然始まっていた。

スバル1000が発売になった翌年は、
大規模な宴会が淡路島で開かれたようで、
驚いたことに最前列に祖母の姿がある。
なぜ祖母が一人で行ったのか不思議だった。

アルバムをめくると、
祖父と並んだ写真が現れた。
そうか夫婦で招待なのだ。
二人とも几帳面な性格だったようで、
日付と場所が書き記されていた。
でも、
何故集合写真に祖父の姿が無いのか。

改めてスマートフォンで写真を拡大すると、

祖母の左後ろに祖父の姿があった。
実は祖父と祖母は全く対照的な性格で、
祖母が明るくコミカルだったのに対して、
祖父は物静かで無口なあまり目立たない、
明治生まれの男だった。
その代わり几帳面。

当時の記録が出てきたので、
大切に保管している。

まだ中古車など存在しない時代で、
売るものは新車ばかりだった。
記録の中で初めてスバル1000の文字が現れた。

森紙さんという名前だけは、
記憶の中に残っている。
大切なお得意様だった。

次のページには7月の販売記録があり、
スバル1000の販売が順調に伸びていたことが判る。
待望の小型自動車がスバルから出ると確信し、
父は工場を持つ新店舗の建設に着手したのだろう。
歴史を振り返ると、
富士重工がしてきたことと、
中津川モータースがしてきたことが綺麗に重なる。
レオーネの発売に先駆けて、
中津川モータースは中津スバルに社名を変えた。
父は富士重工や名古屋スバルからの出向者も含め、
高度成長期の自動車産業の底辺を固めて来た。
父は旅立ったけれど、
二人三脚の思想は今も、
これからも全く変わることは無い。
今夜は通夜式。
これまで頂いた、
皆様からの温かい励ましのお言葉に、
心から感謝申し上げます。