ポール・デルヴォー
2026年 02月 22日

シカゴ美術館
2015年4月14日
忘れられない日となった。
ポール・デルヴォーは1897年9月23日生まれ
1994年7月20日にその生涯を閉じた。
ベルギー・リエージュ州生まれの画家。
画題は「森の目覚め」
シュールだった。


初代レガシィが米国で生産されるようになった。
この決断を下した田島元社長は、
スバルにとって後にも先にも無い救世主だろう。
その後いすゞが乗用車生産から撤退したことで、
スバルは単独の生産基地として持つことになった。
幸いにもいすゞとインディアナの頭文字が同一なので、
耳慣れたSIAの文字は失わず、
いすゞの抜けた穴をトヨタのカムリで埋めながら、
スバルは虎視眈々と脱皮する時を待っていた。

もうこの当時は群馬のサプライヤーを代表する、
東亜工業もこの地に生産拠点を持っていた。
隣の州にホンダの工場があるので、
ホンダのサプライヤーも米国に進出していた。
岐阜県の企業「丸順」もそのひとつであったが、
ホンダの業績が以前ほどの勢いを失い、
丸順が撤退する際に東亜工業が現地工場を譲り受けた事もあり、
SIAの生産能力は年を追うごとに強くなっていった。
このグラフを見ると良く解るが、

但し四代目レガシィでは米国の世界観に迎合せず、
成長速度が鈍化した。
トヨタがいすゞの抜けた穴を補うので、
工場の稼働率は順調に成長を遂げている。
けれども、
この状態ではトヨタに生命線を握られることになるので、
思い切った意識改革がスバルに求められていた。
そこからが面白い。
トヨタが窮地を救ってくれたのは、
彼等にも能力増強の限界があり、
スバルの工場をうまく使ったわけだが、
カムリの生産は大きく伸びているわけではなく、
セダン型車系の限界がもうすぐそこまで迫っていた。
そして注目の2011年、
上記の棒グラフが一気に伸びる。
長年横ばいだった生産実績が急に上向いたのだ。
五代目レガシィの大成功がSIAをガラリと変えた。
そこからスバルのV字型復活が始まり、
今もその勢いは続いている。

日本ではかなり難しいが、
米国の広大な大地には、
まだまだそれを可能とする余裕がある。
この余裕がある事で、
SOAの販売戦略は日本と全く違う形をとる。
まず、
スバルブランド自体の価値が高い。
訪れた時は六代目にバトンタッチした時だった。

物凄くゴージャスなんだ。

クルマの世界観がまるで異なる。
だから、
STIのブランド意識も全く違う。
バッチチューンをことごとく避け、
安易にSTIの名前を使わない。
軽トラにWRブルーを塗る等という暴挙は、
黄色いサルのやる事だと思ったに違いないだろう。
こうしてスバルは米国で理想的なスバルらしさを構築した。
オシアニアがそれに続き、
今ではベトナムなどアジア圏でも同じ戦略を元にしている。
生ぬるいブランド戦略でSTIを腑抜けにするのは、
親であるスバルも悪いけど、
それに甘んじてぬるま湯で満足するようになった、
STIそのものもずいぶん腑抜けなのだ。
ポール・デルヴォーの絵画を見ると、
今の国内のスバルブランドに対する考え方、
STIのつまらない使い方、
それが匂ってくるようで怖い。
昨日のブログの画像が、
一部今日のブログと入れ替わっておりました。
大変失礼いたしました。
動画を撮影してから、
しっかり洗って、


しっかり掃除して展示した。
このクルマはアメリカにおけるスバルの立ち位置を、
大きく向上させた立役者だ。
皆の努力の結晶、
五代目レガシィアウトバックの艶姿。

by b-faction
| 2026-02-22 22:00
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